MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 25 - 会津武家屋敷(會津歴史資料館)(2021年4月10日/2日め)

2021年4月10日 桜の中の鶴ヶ城。(福島県会津若松市)


4月10日


西郷頼母邸の隣りにある、
土蔵に来ています。


江戸時代、上級武士の屋敷内には、
武具や家財を収納する土蔵が、
幾棟もありました。
現在は、そのひとつが、
「會津歴史資料館」
として、利用されています。


土蔵を利用して造られた、「會津歴史資料館」です。

重厚な入り口。まさしく土蔵ですね。特別展「サムライの世界」を開催中でした。

火縄銃(泉州住榎南佐兵衛作)。銃身に武者合戦の銀象嵌が施された、装飾性の高い銃です。

甲冑がたくさん展示されていました。夫、大喜びで、写真撮りまくってます。でも、この日、いちばん気になった甲冑は…、

コレです。兜についているのは、「茶筅」ですよ。😅


なぜ? 
どうして、兜に茶筅が?
…と、つっこみたくなるのですが、
こういうパターンが、
過去にもありました。


栗です。どうして、兜に栗が?😂😂

バニーガールのような…。これでは、鴨居にひっかかって、戦いにくかったのでは…。なぜ、誰も止めなかったのでしょうか?😂😂

これらの甲冑は、群馬県・「かやぶきの郷 薬師温泉 旅籠」で見つけたものです。(2020年11月13日)


この資料館には、お点前のお道具も展示されていました。茶筅っていうのは、普通はこんなところにあるものですよね。それがどうして兜にあったのかは、今もナゾです…。😅


他にもたくさんの展示があったのですが、
私がいちばん心に残ったのは、
常設展示されている、
秩父宮勢津子妃の写真でした。


秩父宮雍仁(やすひと)親王と勢津子妃(画像をお借りしました)


【秩父宮勢津子妃】
秩父宮雍仁親王の妃で、旧名は松平節子。結婚の際、伊勢の「勢」と会津の「津」をとって勢津子と改名しました。旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。
戊辰戦争で新政府軍と戦ったため、会津の人々には、「会津は朝敵となってしまった」という思いがあったそうです。皇室でも、会津の悲劇に胸を痛めており、雍仁親王のお妃選びの際、「妃は会津から迎えよう」という意図があったと、聞いたことがあります。
秩父宮と松平節子の結婚が決定したとき、会津の人々は歓喜しました。「朝敵の汚名をそそぎ、会津の復権がなった」と泣いて喜ぶ人々が、多数いたそうです。「逆賊」「朝敵」の領袖である松平容保の孫にあたる、勢津子妃が皇室へ入輿することは、旧会津藩の士族の復権に繋がり、当然、会津人の感激は並々ならぬものでした。


勢津子妃の婚礼は、
1928年に執り行われました。
戊辰戦争が終わって、
実に、60年も後のことです。


にもかかわらず、
戊辰戦争の傷跡は、会津の人々の心に、
深く残り続けたのだなあ、と
思いました。
そんな会津の人々にとって、
会津から皇室入りするということは、
「もはや朝敵とみなされない。」
という喜びがあったのでしょう。


会津の人々に大きな希望を与えた、
勢津子妃。
生涯、会津人としてのアイデンティティを
強く意識していたそうです。
会津の悲しみをよく知る、
情の厚い方だったと思われます。


それでも。
皇太子明仁親王と正田美智子さんの
結婚において、勢津子妃は、
母・松平信子と共に、猛反対しました。
反対の理由は、
平民である美智子さんへの嫌悪感と共に、
この婚姻が、戦後に起こった、
「旧皇族・華族」の没落の象徴であると、
受け止められたからです。


美智子妃(当時)のご成婚に際して、
松平信子は、遠縁の牧野純子を
美智子妃の女官長に推挙します。
しかし、ご成婚後、
この女官長の美智子妃いじめが
すさまじかったという話が、
ネットを調べると出てきます。


戊辰戦争という大きな悲しみを経て、
いわれのない差別を受けて来たからこそ、
同じように差別される人の痛みを
思いやることも、
できたのではないでしょうか。
痛みや悲しみを知る側だからこそ、
美智子妃の結婚を喜び、
支えてあげることもできたでしょうに。
残念な話です。


美智子妃に対しても、
「ならぬことはならぬものです。」
と思っていたかどうかは、
わかりませんが。
そういう時代だったのでしょう。


優れた教えとされている、什の掟。しかし、「ならぬことはならぬ」の言葉は、ときとして、家柄重視にもつながりました。藩の要職は家柄による世襲制とされ、家柄の低いものは、「ならぬことはならぬ」として、どんなに有能な人材であっても、登用されなかったそうです。


(つづく)


(掲載しそこなっていた写真です。)
鶴ヶ城で展示されていた、四斤山砲(よんきんさんぽう)です。戊辰戦争中に、最も多く使用されました。四斤とは、約4キロの弾丸を発射できる口径の表示です。山砲は、山地などで使用する場合に、分解して運搬できる火砲のことを言います。

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