コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 21 - 会津若松・西郷頼母邸(自刃の場)(2021年4月10日/2日め)
2021年4月10日 鶴ヶ城から臨んだ景色です。(福島県会津若松市)
4月10日
会津武家屋敷に来ています。
その広大な敷地内の
半分近くを占めているのが、
「家老屋敷」です。
かつての会津藩家老である、
西郷頼母の屋敷でした。
赤い丸で囲んだところが、西郷頼母邸です。
けやき、ひのき、杉材を用いた和洋建築の壮大な屋敷は、敷地面積2400坪、建築面積280坪に及び、38の部屋があり、畳の数は328枚となっています。
式台玄関。邸の正面に位置する表玄関です。公式の出入り口として、お客様の送り迎えや挨拶の場として使われました。
片長屋の先には、
資料館のようなものがあります。
そこで、いきなり、驚く場面に
でくわしてしまいました。
西郷頼母一族の自刃の場です。
【西郷頼母一族の自刃】
1868年(慶應4)年、8月23日、会津城下に早鐘が鳴らされ、千重子は夫・頼母と長男・吉十郎の入城を見送りました。出陣の挨拶に来た甥の貞吉(白虎隊唯一の生存者)にも、励ましの言葉を与えます。
その後千恵子は、白装束に着替えて親類一同を居間に集め、「子連れでは足手まとい。ここで自刃するのが国に殉じること。」といい、まず幼い2歳と4歳の娘を刺してから自らも自害しました。享年34歳。邸内では、同じく頼母の母や娘など、西郷一族総勢21人が、壮絶な集団自刃を遂げました。
やがて、西軍(土佐藩士)が西郷邸に乗り込んできたときに、死にきれず、瀕死の状態の娘を見つけました。後に、頼母の長女・西郷細布子(16歳)であったと推定されています。彼女は、か細い声で、「あなたは敵か味方か」と尋ね、藩士はあえて、「味方だ」と答えました。すると懐剣を取出し「これで介錯を」と願い、藩士は介錯に応じてやったそうです。この日、会津城下では、婦女子233名が自刃しました。この無言の抵抗は、西軍もたじろぐほどでした。
会津若松・善龍寺には、この日に自害した婦女子の霊を弔うため、「なよたけの碑」が建立されています。
一族の自刃は、下の系図で黒枠で囲んだ9名の婦女子のほか、西郷家支族、西郷鉄之助近虎(67歳)、妻きく子(59歳)、小森駿馬の祖母ひで子(西郷頼母外祖母77歳)、妻みわ子(24歳)、長男千代吉(5歳)、妹つち子(10歳)、妹みつ子(2歳)、親戚町田傳八(50歳)、妻ふさ子(59歳)、姉浦路(65歳)、町田家の親戚、浅井信次郎妻たつ子(24歳)、長男彦(2歳)の合わせて21名でした。
ただの観光で来たつもりだったのですが…。
いきなり、痛ましい歴史を見せられて、
言葉もありません。
自刃の場を再現した部屋の前で、
手を合わせ、しばらくのあいだ、
立ち去ることができませんでした。
結局、このときの気持ちを抱えながら、
このあともずっと、広い邸内の見学を
続けることになってしまいました…。
その隣りでは、西郷四郎についての展示がありました。
【西郷四郎】
会津藩士・志田貞二郎の三男。後に西郷頼母の養子として、西郷家を継ぎました。戊辰戦争後、上京し、講道館に入門します。後に、近代柔術の礎を築き、小説「姿三四郎」のモデルとなりました。
西郷四郎の銅像は、敷地内にも建てられています。
そして、山川捨松。会津藩家老・山川尚江の末娘でした。11年間の米国留学を終えて帰国した後、陸軍卿大山巌と結婚します。留学経験を活かして、鹿鳴館などで活躍し、日米親善の先駆者となりました。
もう、見学するところがたくさんあって、
なかなか邸内に行きつきません。
表玄関の隣りにある木戸塀。見学者は、この木戸を抜けたところに設けられた出入り口(料理の間)から、屋敷内に入ります。
右側が片長屋で、左側が料理の間です。
料理の間(台所)です。ここが、見学者用の入り口になっています。
車箪笥が並んでいます。上に置かれているのは、左から、火付木入れ、会津塗丸膳、半截(はんさい)桶(たらいの形をした底の浅い桶)です。
車箪笥です。非常持出用に、車がついていました。実際には、火事の際に箪笥が避難路をふさぎ、大惨事につながることもあったそうです。そのため、1657年の明暦の大火後、車箪笥は禁止されました。が、地方では使い続けられ、独特のおもしろい形になっていきました。
車箪笥を初めて知ったのは、2020年11月のことでした。群馬県の「かやぶきの郷 薬師温泉 旅籠」にある時代箪笥回廊には、様々な箪笥が展示されていて、とても面白かったです。これ以降、全国のあちこちで、車箪笥を見かけることになりました。
時代箪笥回廊に展示されていた車箪笥です。
この料理の間で靴を脱ぎ、お屋敷の中に上がります。ここには、お土産物屋さんのコーナーもあります。
次回から、38室にも及ぶ、
西郷頼母邸の内部を
ご紹介します。
(つづく)