MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 16 - 桜の中の鶴ヶ城(2021年4月10日/2日め)

2021年4月10日 鶴ヶ城跡で。(福島県会津若松市)


夏休みで、7日から、長男が帰宅しています。
久しぶりに、家の中が騒がしくて忙しくて、うれしい日々です。^^


4月10日


若松城(地元では鶴ヶ城と呼ばれています。)
に来ています。


お堀に沿って、満開の桜が続いています。

ずうっと向こうまで、桜です。すごい。^^

司馬遼太郎文学碑

「明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城に 残す月影」(新島八重)


1868年(明治元年)9月22日、会津藩は「降伏」の旗を掲げ、壮絶な戦いを繰り広げた籠城戦に終止符が打たれました。山本(新島)八重は、新政府軍が鶴ヶ城に入城する様子を「切歯扼腕(せっしやくわん)」(歯ぎしりし腕を強く握るほど無念な様子)の思いで見守ったと、晩年(84歳)に語っています。その夜、八重は三ノ丸の一角で、この和歌を詠みました。
 ー物心ついたときから日々見上げてきた鶴ヶ城が、明日からどこの国の誰の手に渡ってしまうのか。ー
八重の無念さが伝わってくるようです。


広い鶴ヶ城跡。とりあえず、駐車場から廊下橋をめざして歩きます。

廊下橋が見えてきました。

あっ 橋の向こうに、少しだけお城が見えています。^^

先ほど見かけたおふたりが、ここで記念写真を撮っていました。とってもすてきです。^^

石垣に沿って、どんどん歩きます。

歩いても歩いても、桜が続きます。

そして、咲き誇る桜の向こうに、見えてきました。

鶴ヶ城です。


【鶴ヶ城(若松城)】
1384年、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が館を造ったのが、はじまりとされます。
鶴ヶ城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていました。藩主の会津松平家が徳川将軍家と密接な関係にあったため、幕末には、戊辰戦争の激戦地となりました。
1868年(慶応4年)、戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争(会津城籠城戦)にて、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され、砲撃を受けました。1か月間の籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾し、9月22日(太陽暦11月6日)に開城しました。戦争により、天守を含む多くの建造物が損傷しましたが、修復は行われず、しばらく放置された後、解体されました。
その後、本丸が復旧されたのは、1960年ごろです。現在の天守は、1965年(昭和40年)に、外観復興再建されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されています。


満開の桜の下、城を仰ぐ。これが、ブログのタイトルになりました。^^ この旅で、いちばん気持ちが華やいだ瞬間でした。

鶴ヶ城の全体図です。

入場券売り場に着きました。まずは、検温画面の前で体温チェックです。

鶴ヶ城の入場券です。

それでは、お城の中に入ります。


(つづく)

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