コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 11 - 会津若松・日新館(生きた証)(2021年4月10日/2日め)
2021年4月9日 日新館の東塾で。食事風景です。(福島県会津若松市)
4月10日
日新館の東塾に来ています。
通路に沿って、
いくつもの部屋が並んでいます。
そのひとつひとつを、見て歩きました。
素読所です。一見、普通の学習風景でした。
けれど、近寄ってみると、
不思議なことに気がつきます。
勉強する少年たちのひとりひとりに、
名札が建てられているのです。
白虎隊士中二番隊 伊藤俊彦(十六歳)
優しくて誠実、温厚で情が深い。勇気は人一倍。
白虎隊士中二番隊 石田和助(十六歳)
性格は剛直で、飯盛山では一番最初に切腹した。
兄の日下義雄は、後に福島県や長崎県の知事となった。
白虎隊士中二番隊 井深茂太郎(十六歳)
文武両道に秀でていた。十三歳で大学に学び、度胸もあった。
一族に、ソニーの井深大氏、明治学院の井深梶之介先生がいる。
このとき、ようやく気がつきました。
この少年たちは、飯盛山で自害した、
20名の白虎隊士なのです。
よく見ると、ひとりひとりの顔も、
異なっています。
ありし日の彼らの勉学に励むようすを、
ここに再現しようとした人々の、
その気持ちを思うと、
胸が痛くなりました。
白虎隊士中二番隊 津川貴代美(十六歳)
情け深い性格で勇気があった。子供が狂犬にかまれそうになった時、自分の指を犠牲にして助けた。
白虎隊士中二番隊 有賀織之介(十六歳)
勇敢な性格で、果敢に向かって臆するところがなかった。
白虎隊士中二番隊 西川勝太郎(十六歳)
沈着にして度量あり。物に動じない性格であった。
白虎隊士中二番隊 永瀬雄次(十六歳)
武術に熱心で、殊に砲術を善くし、銃丸製作所に入ってその業を学んだ。
書学所です。習字・筆道を学ぶところでした。最高の等級を免許と呼び、これに受かると書道の先生になることが許されました。
白虎隊士中二番隊 飯沼貞吉(十六歳)
白虎隊ただ一人の生存者である。
昭和六年、「会津のことは思い出したくない。唯々心苦しい」と云いつつ、生涯を終えた。
白虎隊士中二番隊 鈴木源吉(十七歳)
槍術剣術をよく学び、砲術を得意とした。内科医の次男。
書道の手本です。13歳からは、書道を習いました。
「端渓の大硯」です。250年前のものと伝えられています。硯の周囲には、約2500年前の中国の物語が刻まれています。
白虎隊士中二番隊 簗瀬武治(十六歳)
おとなしい性格ではあったが、志気勇邁だった。代々からの名刀を父からいただいて、出陣した。
天文学の学習所もありました。この後で訪ねるのですが、日新館には、今も、天文台跡が残っています。
奥に見えているのは、天球儀です。これを使って天文学を学んだそうです。
白虎隊士中二番隊 池上新太郎(十六歳)
傷が深く、飯盛山には、伊藤次郎、津田捨蔵と共に、遅れて到着した。
白虎隊士中二番隊 津田捨蔵(十七歳)
質朴にして活発。敵の偵察を行った。
白虎隊の食事学です。日新館の生徒だった白虎隊士の食事は、麦めし、味噌汁、芋や大根の煮物など、粗食でした。これらの食品は、脳の機能を向上させる成分を多く含んでいるそうです。日新館での昼食は、日本で最初の「学校給食」でした。財政難の会津藩では、藩士の給与を減らすなどして、この費用を捻出したそうです。
白虎隊士中二番隊 篠田儀三郎(十七歳)
誠実、実直で、約束は必ず守った。二番隊三十七名のリーダーであった。
礼式方での学習。膳椀の置き方から切腹の作法にいたるまで、武士としての必要な作法を学びました。この光景は、刀剣の受け渡しを学んでいるところです。片手で懐紙を持ち、相手方に礼を示します。
陣法の図上演習をしています。
白虎隊士中二番隊 酒井峰治(十七歳)
会津戦争において、仲間とはぐれたが、知人の農民らに助けられて帰還を果たし、鶴ヶ城籠城戦に加わった。
明治維新後、1905年(明治38年)、北海道に移り、旭川市で精米業を営んだ。峰治が生きている間は、
彼が白虎隊士であったことは知られていなかった。しかし、1993年(平成5年)に、酒井家の仏壇の中から
峰治が明治年間に書き記した『戊辰戦争実歴談』が発見されたため、名が知られるようになった。
腕相撲。
白虎隊士中二番隊 間瀬源七郎(十七歳)
性格は温和で、容姿端麗。大柄ながら色白であった。出陣の時、彼には婚約者がいた。
白虎隊士中二番隊 簗瀬勝三郎(十七歳)
武芸全般に励み、出陣にはフランス式の軍装を最初に装着した。
白虎隊士中二番隊 安達藤三郎(十七歳)
文武両道を好み、人柄は優しく温和であった。戦死した父、兄の後を追った。
ここには、自害した若者たちの、
生きた証がありました。
20名の白虎隊士のほとんどが、
16歳か17歳でした。
なかには、
15歳であったにもかかわらず、
年を偽って
仲間に加わった少年もいたそうです。
私は、白虎隊や戊辰戦争を、
否定も肯定もしません。
ただその歴史には、
痛ましい犠牲があったということを
忘れてはならないと思います。
その痛みを、会津の人々は、
今も胸に秘めているような気がしました。
「人の生きる道は
こうでなくてはならない。」
と教えることは、
意味深いことではありますが、
一歩間違えると、それは、
とても危うく、
悲惨な結果すら招きます。
「ならぬことはならぬものです」
ということばは、清新で、
きっぱりとしていて、
とても美しい。
けれど、ほんとうに
それだけでよかったのでしょうか。
それまで、白虎隊について、
ほとんど無知であった私は、
ここに来て初めて、
その痛ましさにふれました。
そして、
「ほかに選択肢のない生き方」
というものの恐ろしさを、
思わないではいられませんでした。
(つづく)