コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 10 - 会津若松・日新館(東塾)(2021年4月10日/2日め)
2021年4月9日 日新館の東塾で。素読所の学習風景です。(福島県会津若松市)
4月10日
たくさんの桜の花に
背中を押されるようにして、
日新館の門に到着しました。
【日新館】
江戸時代、全国三百藩校の中でも規模・内容ともに随一と謳われたのが、会津藩校の学校「日新館」でした。五代藩主松平容頌(かたのぶ)の時代、家老田中玄宰(はるなか)の「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」との進言によって計画されました。その後、5年の歳月をかけて、1803年(享和3年)、鶴ヶ城の西側に一大学問の殿堂として完成しました。
広さは東西226メートル、南北116メートル、面積8000坪、建物は1500坪ありました。幕末に飯盛山で自刃した白虎隊の少年たちも、勉学はもちろんの事、「ならぬものはならぬ」の精神を学び、未来に夢をはせていました。
日新館は、残念ながら、戊辰戦争で焼失してしまったのですが、「会津の精神文化を後世に伝えよう」との声の下に、1987年(昭和62年)、完全復元されました。
南門から入ります。この門は、藩主をはじめとする上級武士だけが出入りを許され、普段は閉じられていました。生徒の登下校は、両側にある東門と西門を使用していたそうです。
南門の奥に見えている門は、戟門です。
ここで入場料を支払い、小さな地図をいただきました。日新館の内部は、想像していたよりもずっと広く、建物がいくつもあったので、どこから手をつければいいか、迷いそうです。そこで、この地図を見ながら、内部を探索することにしました。
日新館の全体図です。こんなに広いんですよ。びっくりしました。
南門を抜けると、正面に見えるのが、戟門(げきもん)です。重要な建物を守るために、「戟」という武器を持った衛兵を置いて監視させたことから、戟門と呼ばれています。当時は、ここに太鼓を置いて、授業の時刻を知らせていました。
戟門内部では、左右を獅子が守ります。
さらに、戟門の向こうには、大成殿が見えます。
【大成殿】
儒教の祖である孔子像を祀っています。その右側には大学、そして左側には、礼儀作法を教えた礼式方を配しています。右側二階造りの建物は、東にあるので東塾と呼ばれ、反対側の校舎は、西塾と呼ばれました。手前にある池は泮水(はんすい)といいます。大成殿に詣でるときに、身を清める意味と、防火用水としての目的がありました。「泮」とは、学校という意味です。
背景に見えている大きな山は、「会津磐梯山」です。
内部があまりに広くて戸惑ったのですが、
とりあえず、案内の順路に従って、
戟門の右側にある東塾から歩いてみます。
真ん中が戟門。その手前が東塾で、奥が西塾です。
東塾です。西宿と共に初等教育の校舎で、東西塾を合わせて素読所といいました。10歳で入学すると、生徒は素読所に入り、論語を中心とした漢文の読み方を勉強しました。
東塾の内部です。片側に一本の長い通路があり、その通路に従って、いくつもの部屋が並んでいます。
入り口を入ってすぐのところにあるのが、素読所です。上級武士の子どもたちは、十歳になると日新館に入学し、最初はこの素読所という場所で勉強しました。等級制があり、春と秋二回の試験で、優秀な生徒が席に進級しました。実力がある生徒は、飛び級もできました。
当時の日新館。たくさんの生徒たちの姿が見えます。
素読の学習風景を再現した部屋がありました。
これは、先生です。
生徒たちは、十歳になると、素読所に入学し、中国の「論語」「中庸」などを勉強していました。四等級制になっており、成績優秀な生徒は飛び級も可能でした。
十歳の子どもたちが、
幼さを残しながらも、
神妙な顔で、学問にはげんでいます。
ここまでは、普通の学校。
どこにでもある、授業の風景でした。
そう思って見ていたのですが、
やがて私は、この部屋の中の、
不思議なものに目が留まりました。
それは、上の写真にも写っています。
次回は、もう少し近くに寄って、
それについてご説明します。
(つづく)