MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 17 - 安土城跡①(2020年9月24日/3日め)

2020年9月24日 安土城跡で。急こう配の大手道を上ります。😂


9月23日


旅の三日めになりました。
朝食はホテルの部屋で。


前日、食べ過ぎてしまい、
あまりお腹が空いていなかったので、
お部屋のアメニティのドリップコーヒーと、
持参してきたパンで、
軽く済ませました。


さて、今日も出陣です。😂😂
この日は、琵琶湖東岸。
現在の滋賀県近江八幡市にある、
安土城跡に行きました。
城址は国の特別史跡で、
琵琶湖国定公園第1種特別地域になっています。


【安土城】
標高199mの安土山一帯にある、織田信長(1534-82)の居城跡です。安土城は、1576年(天正4年)、織田信長が丹羽長秀に命じ、約3年の歳月をかけて、現在の安土山に築城しました。大型の天守(現地では「天主」と表記)を日本で初めて持った城で、威容を誇りました。地下1階地上6階建てで、天主の高さは約32メートル。1階から4階までが吹き抜けの構造で、中は狩野永徳の金碧障壁画で飾られていたそうです。それまでの城にはない独創的な意匠で、絢爛豪華な城であったと推測されています。


安土城図。山を登らねばなりません。😂


1582年(天正10年)、明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして、何らかの原因によって焼失し、その後廃城となりました。現在は、石垣などの一部の遺構を残すのみですが、当時実際に城を観覧した宣教師などが記録を残しており、それによって、焼失前の様子をうかがい知ることができます。


安土城は、総石垣で普請された城郭であり、石垣の上に天守がある、初めての城でした。ここで培われた築城技術は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となります。その後、普請を手がけた石垣職人集団「穴太衆」が、全国の城の石垣普請に携わりました。こうして、石垣を使った城が、全国に広がっていったのだそうです。


安土城跡がある安土山の空中写真(1982年)。こんなに広いんですね。😂


つまり…。
安土城は、
わが国最初の本格的な天主を持つ城で、
歴史上に名を残す名城跡なのです。


安土城の城郭遺構は、
安土山の全体に分布しています。
当時の建築物としては、
 仁王門
 三重塔

が、摠見寺の境内に残っています。
また二の丸には、信長の霊廟が置かれています。


今、こうして、安土城図や航空写真を見ると、
安土城跡がかなり広いことがわかります。
つまり、か~なりたくさん
歩かねば(登らねば)ならない
ということです。
はじめに知っていれば、行かなかったかも…。


でも、なにしろ、
下調べというものをほとんどやらないMIYO。笑
たいていの旅行では、
なにも知らずに現地に行ってしまい、
夫に連れて行かれたところを歩くだけです。
この日も、安土城跡がどんなところかも知らず、
のこのことついてきてしまいました。


安土城跡の大手口。誰もいません。笑


「ここ、どこ…?」
「安土城だよ。♪♪」

という、のどかな(無知な)会話と共に、
本日の行軍が始まったのですが、
これからひどい目にあうとは、
このときはまだ、
予想だにしていませんでした。😂


まずは、受付処で入山料を払いました(700円)。


受付処を抜けると、
いきなり目に入るのがコレです。


な、なが~い石段。大手道がここから始まります。当時は、この大手道の正面に安土城が見えたようです。


【大手道】
賓客を迎えるための道とも言われ、幅6m直線で約80mです。左右に折れ曲がりながら、黒金門まで続きます(全長130m)。道の両側には、石組みの水路が走り、その外に金箔瓦がのった高い塀と石塁が連なり、さらに、屋敷群がありました。


「なにこれ。石段ばっかじゃん。
 これ、全部上るの?🤢
 こんなの聞いてないし。」
「そうだよ。♪♪😜」


夫は、私に怒られまいと、
逃げるように石段を上り始めました。
あ~、また騙された…。
しかたなく、私も上ります。
こんな石段くらいで
文句言ってる場合じゃなかったのは、
このあとでわかるのですが。爆


道の両側を走る、石組みの水路。

くずれかけた石段を上っていると、左手に、羽柴秀吉邸跡が見えました。


【羽柴秀吉邸跡】
羽柴秀吉の屋敷跡と伝えられています。上下2段にわかれた大規模な屋敷で、下段の入口には櫓門(やぐらもん)が、上段の入口には高麗門が存在したそうです。なお、この秀吉邸の櫓門は、日本最古の例として知られています。玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っていました。さらにその奥には、内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366m2あり、この屋敷群では最大の規模でした。この遺構が発掘されたことにより、16世紀末の武家住宅の全容が明らかになりました。


羽柴秀吉邸復元図

現在見ることができるのは、遺構だけです。「城跡だけでなくて、家来の屋敷跡まであったとは。どんだけ歩かされるんだ…。」と思いながら、ションボリ歩いています。😞

そして、大手道の右手にあるのが、徳川家康邸跡。現在は、摠見寺が移設されています。家康と秀吉は、こんなにもご近所さんだったんですね。^^

ここも、遺構があります。

石段、まだまだこんなにいっぱいあります~。😂😂😂

石段を上がっていたら、異様なものを見つけました。2か所の、白いプレートをご覧ください。

石仏です。石段の中に、石仏があるのです。

見る方向を90度変えてみると、仏様の形がわかります。


【大手道跡の石仏】
築城の際に、大手道の石材として、石仏が使われています。城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石材や墓石等も含まれていました。出土した石仏は、本来は信仰の対象となっていたものです。が、築城当時、山から採取する石だけでは間に合わず、墓石や石仏も材料として使っていたということです。とはいうものの、材料不足だけでなく、信長自身の権威を示すという目的もあったようです。これらの石仏は、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しているそうです。


石仏は、ひとつだけではありませんでした。

ここにもあります。

現在では、石仏には、必ず、お賽銭入れが添えられています。あまりにもたくさんあったので、途中から、写真を撮るのはやめました。


私は、それほど信心深いわけではありません。
それでもさすがに、
この石仏を踏んで歩く気持ちには、
なれません。
けれど当時は、この石段を多くの人が歩き、
当然のように、石仏を踏みつけていたのでしょう。


わざわざ、
こんなひどいことをしなくても…。


石段を上がりながら、
信長に対する、
怒りとも悲しみともつかない思いが、
ふつふつとわいてきました。
残念な気持ちでした。


大手道、まだまだ続きます。😂


(つづく)

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