コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 18 - 北前船の里資料館(2020年7月26 日/3日め)
2020年7月27日 温泉めい想倶楽部「富士屋」で。
7月26日
日本海に大きく突き出す能登半島は、
古くから、日本海の交通の要所として、
経済や文化の交叉点となってきました。
その、能登の海運を担い、
繁栄をもたらしたのが、「北前船」です。
それでは、「北前船の里資料館」に
展示されているものを、ご紹介します。
船箪笥。お金や重要書類、衣装類を入れるために用いました。外側はケヤキで、内部は桐材を使い、海難時に海に投げ入れても水が入らないよう、精密に作られています。外側には、薄い鉄板を用い、いくつもの鍵が取り付けられています。内部には、かくし引き出しもありました。正面の扉には、芸術的な透かし彫りの金具を取り付け、中には、家門を打ち抜いたものもありました。
江戸時代初期、近江商人は、
内地から最初に蝦夷地に入った商人でした。
当初、北陸の人々は、
船頭や水主として雇われていました。
が、航海を任され、商品売買を経験するにつれて、
彼らはしだいに商才を発揮しはじめます。
そして、各地で商品を仕入れて販売するようになり、
大きな利益を上げていきました。
今も残る、西谷回漕店の半纏。
「千石船(せんごくぶね)、一航海で千両稼ぐ」
と言う言葉が、今も残っています。
往年の、北前船の繁栄ぶりを示した言葉です。
現代の貨幣価値に換算すると、
千両はおよそ一億円~二億円。
米を千石積載できる規模の北前船は、
約210日間の航海で、千両もの大金を稼いだのです。
今のお金で、一億円ですよ。^^
巨万の富を築いた船主のお屋敷の、
内部を歩いてみました。
めちゃくちゃ広いです~。笑
オエ
30畳の大広間です。8寸(約24cm)角のケヤキの柱、巨大な松の梁、秋田杉の一枚板の大戸など、最高級の建材を使った建物からは、船主の豪勢な暮らしぶりをうかがい知ることができます。
クチザシキ
建物内のすべての天井に、漆が何層にも塗られています。130年以上経っているとは思えない輝きです。奥に見えるのが仏壇です。
ナカザシキよりオクザシキへ歩くと、
つきあたりに、大小2つの仏壇が置かれています。
左が冬仏壇。そして右は夏仏壇です。
主人が船の商売で留守の間は、
小さい夏仏壇を使用し、
主人が戻る冬には、冬仏壇を使用しました。
酒谷家の仏壇は三国仏壇で、
加賀市の指定文化財になっています。
主人が船の商売で留守の間に使用した、小さい夏仏壇。
そして、主人が戻る冬に使用した、冬仏壇。
家紋が彫り抜かれた欄間。
船主や家族が使用した、袴盆、箱枕、そして、銀簪(かんざし)や髻(もとどり)留。どれも、良質の高級品だそうです。
蓬莱山鶴亀蒔絵盃。
北前船が描かれた大皿。
金糸銀糸で刺繍された、大ぶりの袱紗。
オクナンド
床縁や違い棚には黒柿や紫檀、当時は貴重な輸入ものである鉄刀木(たがやさん)などが使われています。
水場。水道がない時代ですが、桶を使った水道らしきものが据えられていました。
そして、長い渡り廊下を歩くと…、
土蔵です。土蔵の中は船絵馬館になっていて、加賀市内の神社に奉納された船絵馬10数点を、展示しています。
航海の無事を願って奉納された、船絵馬の数々。
資料館はとってもおもしろかったのですが、
私と長女が全部見終わっても、
夫はどこかに行ったきりです。
資料館が楽しすぎて、
戻ってこれなくなってるんですね…。怒
仕方ないので、大広間で待っていたのですが、
暑いし、だんだん疲れてきました。
早くお宿に行きたくて、大広間でふてくされてる、私と長女。笑
北前船は、食品や生活必需品だけでなく、
雛人形などの高級品、
そして様々な文化を運ぶことで、
日本人の衣・食・住の生活環境向上に、
大きな役割を果たしたそうです。
また、その財力は、藩政の貴重な財源となり、
弘化の財政改革
黒船来航時の海岸防備
などに、大きく寄与しました。
明治以降には、経済活動がさらに広がりました。
以下に代表するような、多数の大企業が、
船主によって興されています。
八十四銀行
函館銀行
日本火災海上保険
日魯漁業
千島汽船
北陸セメント
命がけで荒波を超え、
動く総合商社として巨万の富を生み、
各地に繁栄をもたらした北前船。
もう、ロマンありすぎですね。^^
資料館の一隅に、こう書いてありました。
北前船の残したもの:
藩政のドル箱
明治以後の経済活動
明治以後の文化活動
けれど、最大の遺産は、
困難を恐れず、
積極敢為の北前魂を育成したこと。
北前船というすばらしい歴史を誇り、
たいせつに保存されている、
加賀橋立のみなさんに、
大きな拍手をおくりたいと思います。
(つづく)