MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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ガンになるまでの日々 29 - 卵巣がん(2015年2月20日)

2008年11月(全盲難聴・のんたん 13歳/中1)
左上:朝は、スクールバスに乗って登校。

右上:長男は、0歳から、国立T研究所のおふたりの先生に療育のご指導をいただきました。毎月1回、盲学校にもご訪問いただき、それは18歳まで続きました。盲ろう教育には、専門の経験や知識が必要ですが、人材は不足しています。長男が、18歳まで専門機関のサポートをいただけたことは、本当にありがたいことでした。
左下:盲学校には寄宿舎があり、週に2回、長男も利用させていただきました。写真は、居室の学習机の前にいる、長男です。
右下:音の出る絵本を聞く、長男。こうして、耳にくっつけると、聞くことができました。


2月20日


あとから気づいたことですが、
12月に、私が、
「疲労感が強いので、
 会社を一ヶ月ほど休みたいんです。」
と言った時点で、
H医師は、私のがんを疑っていたようです。


事前説明で、
「難手術になると思います。」
と言われたのも、
その懸念があったからかもしれません。


退院した後になって、私は、
「先生、私、摘出した自分の卵巣を、
 ほんとうは見たかったんですよ。
 でも、自分は麻酔で寝てるから、
 見られなかったのが残念なんです。
 自分のモノなのに、
 家族しか見せてもらえないんですよね。」
と言ったことがあります。


するとH医師は、
「写真でよければ、あるよ。^^」
と、パソコンの画面に出してくれました。


ふんふん。これか。
なるほど…。


「ついでに言うとね。
 手術中の写真もあるんだけど、
 見る?」


もちろんです。笑


パソコンの画面で、
次々と見せてくださった、
手術時の写真。
驚きました。


開腹したあと、
私のお腹に、びっしりと敷きつめられた、
ブルーのシート。
こんなの、医療ドラマでも、
見たことがありません。


「手術中に、卵巣が破綻することがあるからね。
 そうなっても、中身がお腹の中にこぼれないよう、
 あらかじめ、シートを敷きつめてから、
 切除したんだよ。」


そういえば、
以前、卵巣がんの方のブログで、
「手術中に卵巣が破裂し、
 中のがん細胞が腹腔内に散らばった。」
という事例を、読んだことがありました。


そういう事態も想定し、
H医師は、あらかじめ、
私の腹腔内に、シートを敷きつめたのです。


つまり…。
手術の前から。
入院の前から。
そのずっと前から…。
私のガンを、疑っておられたんですね…。


切除された私の卵巣は、廃棄されたと
思っていました。
けれど、私の知らないところで、
病理検査に送られていたのです。
H医師は、私の手術が決まった時点で、
はじめから、そうするつもりだったのでしょう。


私はその後も、
「どうして行き違いがあったのか?
 卵巣は両方取るはずだったのに、
 どうして右側しか切除しなかったのか?」
と、不思議に思っていました。


が、5年たった今は、
その理由が、わかったような気がします。
H医師は、はじめから、
「ガン」を疑っていたわけです。
そして、だからこそ、切除は最小限にとどめ、
病理検査後に、今後の方針を決める…。
そう考えておられたのではないか、と。


だったら、12月の時点で、
「いや、もしかしてガンかもしれないからね。
 右卵巣だけにしておこうよ。」
とか、はじめに言ってくれていれば
よかったのですが。笑


きっと、私がおびえるのでは、と
心配されたのでしょう。
そして、「ガンかもしれない」という気持ちは、
H医師の胸にしまわれたままで、
すべてが進んだのでした。
12月の診察時には、私にナイショで、
実は、腫瘍マーカーまで、
調べてあったそうです。


でも…。
ガンらしいようなめだった症状は、
当時、まったくなかったのです。
私の「疲れたから休みたい。」発言と、
血液検査とCT検査。
たったそれだけで、
よくガンだとわかったなあ…。
すごい。


「切除した卵巣だけどね。
 実は、病理検査に出してあったの。
 それでね。卵巣ガンでした。」


手術から2週間もたって、
H医師から、突然そう言われ、
あっけにとられる、私。


今さら言われても…。
もう取っちゃったあとですから。
どうすればいいんですか。(苦笑)


「今後のことですが。
 実は、ガンの中でも、
 抗がん剤が効きにくいタイプのガン、
 なんだよね…。
 だから、とりあえずは、
 抗がん剤も放射線もやらず、
 ようすを見ていきましょう。


反射的に、「はい」と頷いてしまいました。笑


「でもね。
 よかったよ、手術を早めて。
 予定通り、9月に手術していたら、
 今から7か月もあとだからね。
 手遅れになっていたかもしれないね。」


あの、12月に感じていた、
ものすごい疲労感と貧血は、
ガンのせいだったのです。
普通なら、
「おかしいなあ」と思いながらも、
病院にも行かず、
見過ごしていたかもしれません。


けれど、たまたま、
腹壁瘢痕ヘルニアの手術後、入院中に、
卵巣嚢腫が悪化したこと。
ヘルニア手術後は、毎月、
H医師の診察を受けていたこと。
そんなことが、結局は、
卵巣がんの早期手術につながったわけです。
ここでもまた、目には見えない、
「なにかの力」があったように、
思えてなりません。
なにより、H医師に出会えたことが、
いちばんの幸運でした。


3月15日。
腸閉塞も全快し、
ようやく退院できました。
卵巣嚢腫で入院したつもりだったのに、
退院するときの診断書には、
「卵巣がん」と書かれていました。


(つづく)


松山のおばあちゃん(私の母)が、シナモンのセーターを送ってくれました。かわいいね。^^(2008年11月24日)

シナモンのセーターを着て、みんなでおでかけ。信濃町のお好み焼き屋さん「SAYA」に行きました。MIYOのいとこが経営しているお店です。

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