MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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ガンになるまでの日々 2 - 回復室に緊急入院(2008年12月)

2008年10月9日 朝の登校風景です。自宅からスクールバス停まで、歩いて5分の道のりでした。(全盲難聴・のんたん 13歳/中1)


2008年12月


痛みがどんどんひどくなり、
土曜も日曜も寝て過ごしました。
もはや、バッファリンは
ほとんど効かなくなっていて、
痛むお腹を抱えて、
ただ寝ていました。


医師から「ガンの疑い」と言われ、
それほどまでに痛みで苦しんでいるとき、
夫はどうしていたかというと、
これが、今でも恨んでいることなのですが、
なんの役にも立たなかったのです(苦笑)。


自分には、不幸なことは起こらない、
と、疑うことなく思い込んでいた夫は、
「突然やってきた不幸な現実」を
受け止めることができなかったようです。


「紹介状を書いてもらうんだけど、
 どこの病院にしようか。」
と相談すると、
夫は、黙って部屋を出て行きました。


今の私なら、
当然怒って、夫を責めます。
でも、当時は私自身も、
夫のそんな行動を理解できず、
ただ、傷ついていました。


日曜の夜になり、あまりの痛みに、
「もうこれ以上はムリ」
と観念した私は、
「明日、予約日じゃないけど、
 G研に行くことにしたから。
 この状態だと、多分、即入院で、
 家に帰ってこられないと思う。
 覚悟しておいてね。」
と、夫に言いました。


それに対して、夫は、
「ふうん…。」
と答えただけでした。


自分の妻が苦しんで、
入院とか言ってるのですから、
「どこがどれくらい痛いの?」とか
「ひとりで病院に行けるの?
 どこの病院に行くの?
 いっしょについていこうか?」とか、
ふつうは言うんじゃないのかと
思うのですが、
夫はなにも言いませんでした。
っていうか、彼の頭の中はまっしろで、
なにも言えなかったのだと、
今ならわかります。


当時の私は、
夫の行動のひとつひとつに傷つき、
病気の時ですら、支えになれないのなら、
もう本当に、夫婦でいる意味はないなあ、
と思っていました。


翌朝、夫は長男をスクールバスまで送り、
そのまま出勤してしまいました。
ひとりで家に残った私は、
会社に休むことを連絡し、
その後、G研病院に電話しました。


「予約していた日は5日後なのですが、
 痛みがとてもひどいので、
 今日、なんとか、
 診ていただけませんでしょうか。」
とお願いしたところ、
「すぐに来てください。」
と。
ダメと言われても、行くつもりでした。


このまま入院だろうと思っていたので、
パジャマと洗顔セットをバッグに入れ、
電車に乗り、約一時間半かけて、
G研に到着しました。


予約していなかったので、
さらに2時間以上待たされ、
ようやく、診察室に。


「どうしましたか?」
と医師に訊かれて、
「先生。お腹が痛いんです。
 38度の熱が、一週間続いています。」
と答えたところ、
医師の顔色が変わりました。
それからがたいへんでした。


「この状態で、ひとりで来たのですか?
 えっ 電車で?
 駅から『歩いて』きたんですか?
 ご家族は?」
と、医師は驚くばかり。
ああ、私、そんなにひどい状態だったんだ、
と、今さらですが思いました。
そのまま、入院になりました。


駅から歩いてきたのに、ナンですが、笑
車いすに乗せられ、看護師さんに、
病棟まで連れて行っていただきました。


その日、病棟は満床状態で、
空きベッドがなかったのですが、
医師がはからってくださり、
「回復室」に入ることになりました。
「回復室」というのは、
手術を受けた患者が、直後に入る部屋で、
ナースセンターの隣りにあります。
ナースセンターとの間は、
ガラス貼りになっていて、そのガラス越しに、
看護師さんが患者を見守ることができるよう、
配慮されています。


回復室のベッドに寝かされ、
ほっとしました。
「ようやくこれで、痛みから解放される。
 仕事も、家事も、育児も、
 もうなにも、考えなくていいのだ。」
という気持ちしかありませんでした。


携帯から、夫に、
「入院しました。」
とメールすると、
「どこの病院かおしえてください。」
とだけ、返事が来ました。


「どこが悪いの?
 まだ痛むの?
 病名は?
 どれくらい入院するの?」
とか、ふつうは訊くんじゃないか、
と思うのですが。(苦笑)


とりあえず、病院にやってきた夫と、
今後の生活について、作戦会議です。
当時、子どもたちは中1でした。
もう子どもではないとはいえ、
長男は全盲・難聴で、
家にひとりで置いておける状態では
ありませんでした。


そこで、私が入院しているあいだは、
学校が終わってから夫が帰宅するまで、
長男を、あるデイサービス施設で、
預かっていただくことになりました。


「障害児の学童保育」という制度が
まだ日本にない時代に、
それをやっている施設だったのですが、
我が家はそこから、ヘルパーさんを
派遣していただいていました。


普段から、そのようなご縁があったので、
「入院して、緊急事態になったので、
 なんとか助けていただけませんか。」
とお願いし、
引き受けていただくことができました。


手順はこうです。


①下校時、ボランティアさんが
 盲学校に迎えに行きます。
 その後、長男と一緒に、
 公園やスーパーなどへ行き、
 放課後をいっしょに過ごしていただきます。
 (ここまでは、従来どおりです。)
 その後、長男を、デイサービスまで、
 送っていただきます。
②長男は、デイサービスで、
 その後の時間を過ごし、
 夕食も食べさせていただきます。
 (夕食は、施設の方から、
  申し出てくださいました。)
③障害のない長女には、夫が帰宅するまで、
 家でお留守番をしてもらいます。
④仕事を終えた夫が帰宅するのは、
 夜8時です。
 その時間に合わせて、デイサービスの方が、
 長男を車で送り届けてくださいます。
 (送迎も、施設の方から、
  申し出てくださいました。)
⑤長男をお風呂に入れたあと、
 夫は、長女と一緒に夕食をとります。
⑥子どもたちを寝かせて、一日が終了です。


この段取りだと、長男には常に、
だれかが付いていることになります。
長男の放課後を引き受け、
毎日、夕食まで食べさせてくださった、
ボランティアの方々や
デイサービスの皆さんには、
今も感謝しています。


長男には、登校の付き添いも必要でした。
それまでも、朝はいつも、夫が、
ふたりの子どもたちといっしょに
家を出ていました。
私の勤務先の始業時間が早く、
私だけが、皆よりも一時間早く、
出勤しなければならなかったからです。


夫は毎朝、子どもたちと、
スクールバスのバス停まで歩き、
長男をバスに乗せます。
バスを見送った後、長女は中学校へ。
そして夫も出勤する、というのが、
我が家の朝の日課でした。


けれど、私が入院してからは、
朝の登校だけでなく、
夜の育児、家事も、すべて、
夫がひとりでやることになりました。
夫もたいへんだったと思います。
でも、頼れる親が、私たちにはいなかったので、
皆さんに助けていただきながら、
こうやって乗り切るしかありませんでした。


私はと言えば、G研病院で、
とりあえず抗生剤を投与し、
様子を見ることになりました。


卵巣がひどく腫れていて、
直径が10センチくらいになっていたようです。
卵巣は、いつ破裂してもおかしくない状態で、
お腹の中はかなり化膿しているようでした。


「手術は最後の手段。
 抗生剤で状態が改善するなら、
 手術をしなくてもすむ。」
というのが、医師の考えでした。


(つづく)


雨の日の登校風景です。

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