MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 2 - ゼージョーマーケット(1987年5月3日/3日め)

1987年5月3日 マンダレー駅で。(ビルマ・マンダレー)


1987年5月3日(土)- 3日め


ラングーンから夜行列車に乗り、
一夜が明けました。


窓の外の景色。うわぁ、牛が畑を耕しています。^^

高床式の家が並ぶ、小さな村が見えました。

こんな小さな村にも、パゴダが並んでいました。

マンダレー駅が近づいてきたようです。

これまで見てきたよりも立派な家が続くようになったな、と思ったら…、

マンダレー駅に到着。ホームにはたくさんの人がいて、全員、ロンジー姿です。

マンダレー駅の前で。こんな感じで、ビルマの中を歩きました。


【マンダレー】
ミャンマー第二の都市で、大河エーヤワディー川の畔に広がる、(現在は)大都会です。ミャンマー中部に位置しており、東西南北をつなぐ交通網の要衝であり、郊外の国際空港がによって、国内各地とも結ばれています。
ミャンマーが英国植民地になる1886年までは、最後の王朝コンバウン朝の首都でした。しかし、ミャンマー最後の国王・ティーボーが、英国によってインドに追放されたことによって、この町は王都としての役目を終えました。

第二次大戦中には、この町を巡って、日本軍と英国軍の激しい戦闘が行われました。近現代におけるミャンマーの、激動の歴史を刻んできた町であると言えます。


とりあえず、駅に荷物を預けて、
シクロ(サイカー)に乗りました。
まだ朝早い時間だったので、
とりあえず市場に行ってみることに。


ビルマのサイカーは、二人乗りの荷台の横に
自転車を取り付けたタイプ。
自転車と反対向きに取り付けてあるので、
走行中、私たちはずっと、
後ろ向きで進むことになります。笑


ドライバーのココさんと。

道端でアイスクリームを買っていたら、ココさんの弟のウィンさんが、自転車で通りがかりました。


その勢いで、ウィンさんもいっしょに、
市場に行くことになりました。


どうやら着いたようです。

マンダレー最大の市場、ゼージョーマーケット(Zeygyo Market)です。

お店がたくさん並んでいて、にぎわっていました。

このあと、ココさんは市場の前で待ち、(なぜか)弟のウィンさんが、マーケットの中を案内してくれました。

男の人も女の人も、みーーーんなロンジー。パンツやスカートは皆無です。

お母さんといっしょに、手作り料理を売る女の子。

お水屋さんです。お金を払うと、バケツの中の水をコップに注いでくれます。ペットボトルもコンビニもない時代。お水を飲みたければ、こういうのを買うしかありませんでした。

秀逸だったのは、この「お水販売器」。バケツの上に、布の茶こしを取り付けてあります。お金を払うと、まずは、コップ一杯の水をこの茶こしに注ぎます。布で濾過された水をコップに受けて、それをもらって飲むシステム。


「布で濾すとか、
 いったいどんな水だったんだ。🤣」
「あのコップは洗っていたのだろうか。」
とか、今なら思いますが、
あの頃はこれしかなかったので、
もうふつうに飲んでいました。😅
そして、この「売り水」で、
お腹をこわしたことはありませんでした。


ザルに刃物を並べて売っている、シャン族のおばあさんと。夫が大好きな一枚。

素焼きの壺をたくさん並べたお店。

小さな食料品店。

乾物屋さん。

布地屋さん。夫にわざと立っていてもらったのですが、実は撮りたかったのは、この女性の方。藤色のロンジーがあまりにすてきだったので。髪飾りも同じ色で合わせておられました。^^

このあとは、食堂エリアになりました。中華鍋で油条を揚げては、ザルに並べています。

油条です。中国・タイ・ベトナム・台湾・シンガポールの伝統的な麩料理で、細長い揚げパンのようになっています。最近は、日本でもわりと簡単に食べられるようになりました。(画像をお借りしました)

食堂エリアなのですが…。どこまでが厨房で、どこからがお店なのか、よくわからない状態。🤣


ここまでずっと、
ウィンさんといっしょに歩きました。


前日、ラングーンで会ったフォーさん、
そしてマンダレーで会ったこのご兄弟。
みなさん、なぜか、
いきなり出会った私たちに、
おごってくれたり、案内してくれたり。
だからといって、
お金を要求するわけでもありません。


こういうことは、他の国では、
(たまにはありますが)
なかなか起こらないことでした。
でも、ビルマではこれが普通なのだと、
旅を続けるうちに、次第にわかってきました。


今思い出しても、
「あのころのビルマは、
 天国にいちばん近い国だった。」
という気持ちに、変わりありません。
ビルマ国内の、行く先々で出会った人々との、
さまざまなふれあい。
それは、他の国では、
なかなか得られない体験だったと思います。


楽しかった、ゼージョーマーケット。

ちなみにこれは、現在のゼージョーマーケット。もはや、タイとかベトナムの市場と変わりませんね…。(画像をお借りしました)


ゼージョーマーケットの、
あのなつかしい風景は、
今はもう、どこにもありません。
旅というのは、そんなものですね…。
今、この瞬間を見ておかないと、
もう二度と、見ることはできないかも。
「いつか行こう」と思っていても、
その場所は待っていてくれず、
やがてなくなってしまうかもしれません。


行きたいところには、
行けるときに行かなければ。
やりたいことは、
できるときにやらなければ。
会いたい人には、
会えるときに会わなければ。


旅だけじゃなく、
人生もまた、同じことかもしれません。


このあとも、マンダレーを歩きます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 1 - バンコクからラングーン、そしてマンダレーへ。(1987年5月1日-2日/1日め-2日め)

1987年5月2日 夜行列車に乗って、ラングーンからマンダレーへ行きました。(ビルマ・ラングーン)


突然ですが、
ビルマの旅日記を書こうと思います。爆


「なぜ急にビルマなんだ。」
「カンボジアはどうなったんだ。」
と叱られそうですが…。(スミマセン)
ずうっとカンボジアのことを書き続けたので、
ここでちょっとお休みして、
ビルマのことを、書いてみたくなりました。


これまで書いてきたベトナム・カンボジアから、舞台はさらに西へと移動します。ビルマ(現在のミヤンマー)の首都ラングーン(現在のヤンゴン)は、バンコクから西へ837㎞のところにあります。


アンコールワットの第三回廊で、
下界の景色を眺めたときのことです。
その瞬間に、なつかしく思い出したのは、
ビルマ・パガンのことでした。
私のとなりで、夫も、
「パガンに行ったときみたいだ。」
と…。
第三回廊の「王のバルコニー」で、
夫も私も、くしくも、
同じ日のことを思い出していました。


あの日、パガンで。
寺院の上から下界を見渡した日の思いは、
以来37年間、ずっと心に残っていて、
消えることはありません。


ベトナム・カンボジアの旅から帰国し、
このところずっと、
アンコールワットの日記を書いてきましたが、
第三回廊の日記を書き始めたとたんに、
私の頭の中で浮かんでは消えていったのは、
やはり、あのパガンの風景でした。


そんなわけで、懐かしいビルマの思い出を、
書きたくなりました。
37年も前のことを、今さら書いてしまって、
スミマセン。
昔のことなので、
写真もあまりきれいではないのですが、
お読みいただき、こんな国もあったのだな、と、
いっしょに楽しんでいただけたらうれしいです。


1987年5月1日(金)- 1日め


リタイアした今と違って、
当時は夫婦共に会社員でしたから、
海外旅行というと、たいていは、
GW、夏休み、年末年始と、
費用がばか高くなる時にしか行けませんでした。


このときの旅も、GW真っ只中の出発でした。
当時、日本からビルマへの直行便はなく、
まずは成田からバンコクへ向かいました。
バンコクで一泊してから、
さらに翌日、ビルマ行きの飛行機に乗る、
という計画です。


タイ航空で行きました。(MIYO27歳、多動夫29歳🤣)


バンコクに到着し、
ホテルにチェックインしたのは夕方ごろ。
そしていきなり屋台へ。🤣
当時、「タイの屋台料理」は、
日本ではなかなか食べられなかったので、
バンコクに着いたらいつも、
とにかく屋台に直行でした。笑


大好きな、センヤーイ ナムを食べてます。笑


1987年5月2日(土)- 2日め


午前中に少し時間があったので、
さくっとバンコク市内観光。


ランブータンやドリアンを、小さな女の子が売っていました。かわいいね。^^

なぜか、ヘビのショーなんか見て…、🤣

そのあとは、お船に乗って…、

ワット・アルン(暁の寺)。

王宮が、少しだけ見えました。

水上バスには、お坊さんも乗っています。

ホテルに戻ってお昼ごはんを食べたら…、


いよいよビルマに出発です。
今回は過酷な旅になるとわかっていたので、
旅行カバンではなく、
私も夫も、大学時代に使い込んだ、
バックパックを背負ってきました。


出発する直前に、旅行会社の鈴木さんが、ホテルまで来てくださいました。この一年前、初めてタイに来た時にお世話になった方です。赤ちゃんが生まれたと聞いていたので、お土産に子ども服をお持ちしました。

そして飛行機に乗り、おっかなびっくり、首都ラングーンに到着。

市内に高いビルなどはなく、パゴダばかりが目立っていました。

金色に輝く、シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda)です。


【シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda) 】
ミャンマーのヤンゴン中心部に存在する寺院(パゴダ)です。釈迦および釈迦以前にこの世に現れた3人の菩薩の遺体の一部が納められていると信じられていることから、重要な聖地とされています。6世紀から10世紀の間に建立されたと考えられていますが、地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は、15世紀ころに成立したようです。1608年、ポルトガルの探検家フィリプ・デ・ブリト・エ・ニコテがシュエダゴンを略奪した記録があり、第一次英緬戦争中には、イギリスが上陸し、シュエダゴンを奪取・占領し、以後2年間、ストゥーパ(仏塔)を要塞にしました。
さまざまな歴史に翻弄されながらも、シュエダゴン・パゴダは残され、現在も、ミャンマーの人々の信仰の象徴となっています。


街の中心部ですが、のどかな雰囲気。ロンジーを付けた女性がのんびりと歩いていました。

夕暮れ時、街の中を歩いていたら、いきなり日本語で話しかけられました。それが、フォーさんとの出会いでした。

ロンジー姿が決まっていた、フォーさん。日本語を勉強しているとのこと。会話の練習がしたくて、私たちに話しかけたのだそうです。

「ビルマ料理を食べたいですか?」と訊かれ、食堂に連れて行っていただきました。

街の中にあった、普通の食堂です。当時、ビルマはほぼ鎖国状態で、外国人はほとんど見かけませんでした。なので、私たちのことが珍しかったようです。私たちを見ようと、いろんな人がお店までのぞきにやってきました。笑

このときにいただいたのは、「オンノカウスエ」という、ココナッツスープ麺。フォーさんがごちそうしてくれました。

オンノカウスエ(Ohn no khao swè)です。(画像をお借りしました)


食事の後は、フォーさんといっしょに、
ラングーン駅まで歩きました。
夫が作ったスケジュールでは、
この日は、ラングーン(現在のヤンゴン)に
泊まることになっていました。
でも駅に着いてみると、運よく、
マンダレー行きの列車のチケットが買えたので、
急遽、予定変更。
ラングーンには泊まらず、
そのまま夜行列車に乗って、
マンダレーまで行くことに…。


ホームで、フォーさんが見送ってくれました。

「6日後、ラングーンに戻ったらまた会いましょう。」と約束して、出発。

1等車なので、一応、シートにカバーがかかっています。窓の外は真っ暗でしたが…、

どこかの駅に停まるたびに、窓越しに食べ物を売る子どもたちが集まってきて、「イエー! イエー!(水、水はいかが?)」と叫んで大にぎわい。トレーに載せた、緑色の包みは駅弁です。^^

私たちも買ってみました。バナナの葉っぱに包まれたものを開くと、黄色いおこわと鶏肉が入っていました。(8チャット)

おいしかったです。^^

夜も更けて、お休みタイム。私たちのことが気になって、なにかと話しかけてきたボクも、ぐっすり眠っていました。

↑これは夫のバックパック。置き場所がなくて困っていたら、ボクが自分の前の場所を提供してくれました。^^


ラングーン(ヤンゴン)からマンダレーまでは、急行で12時間。夜6時に出発した列車は、北へ向かって走り続けました。

どうでもいいことなのですが、この地図、すごく楽しい。笑 結婚して40年。その40年間で、夫といっしょに歩いたところに丸つけてみたら、こうなりました。(このふたり、アホちゃうか?って言われそうですが…。😅)


東京からバンコクに行き、
翌日はラングーンに飛び、
そこからいきなり夜行列車で、
マンダレーに移動です。
多動夫が企画する旅は、
今も昔も、とにかく忙しい。😂😂


このときの旅では、
バンコクで乗り継いだので、
ビルマに滞在したのは、8日間だけ。
飛行機で移動した日を除くと、
ビルマを観光できたのは、実質7日間。
その7日間で、
「当時外国人が行くことを許されていた所を、
 ほとんど歩いてしまおう」
というのが、夫の計画でした。
(↑昔から、やってることが変わりませんね…。😔)


そんなわけで、
ビルマ国内を駆けずり回った8日間。
なにもかもがめちゃくちゃでしたが、
その後の37年を全部振り返ってみても、
「いちばん楽しかった旅は」と尋ねられたら、
やはりこのビルマでの8日間だったと、
言わざるを得ません。


鎖国状態で、モノはなにもなかったけど、
あの頃のビルマは、ほんとうに、
「天国にいちばん近い国」でした。


人生で最高に楽しかった旅の、
全日程はムリですが、ほんの一部だけ。
「ラングーンからパガンまで」だけでも、
当時を思い出しながら、
書いてみたいと思います。


(つづく)

ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 47 - アンコールワット⑳ 大塔門から西参道へ(2024年1月17日/6日め)

2024年1月17日 アンコールワット・西参道で。(カンボジア・シェムリアップ)


1月17日(日)- 6日め


第三回廊をぐるりと歩いたあと、
急階段を降りて、下界へと戻りました。



上の地図では、一見すると、
すべて歩いたように見えるのですが、
実は、まだ一か所、
歩いていないところがあります。
それは、西面中央にある、大塔門
大塔門の内側は、
西面を歩いたときに見ています。
が、大塔門からの出入りをしていないのです。


ほとんどの人は、
大塔門から、伽藍の中に入るのですが、
私たちは北西角の入口(8番)から入ったため、
大塔門を通っていません。
なので、「帰りくらいは、大塔門から出よう。」
と考えました。


内部はすべて歩いたのだから、
どこから出るか、なんて、
たいしたことではないのですが、
まあ、気分の問題ですね。😅


左端にあるのが、大塔門です。

大塔門を出ると、その先には十字型テラスがあります。両脇を守るシンハーを見ながら階段を降りると、そこには西面前広場が広がっています。

大塔門の前にある十字型テラスを直進せず、左側の階段を降りました。


大塔門から伽藍を出たあとは、
西面の前にある広場を、
ゆっくりと歩いてみました。


通常のツアーでは、1、2時間の限られた時間で、
伽藍の中を部分的に見学するのが精一杯です。
なので、この広場まで歩く時間はありません。
誰も歩いていない広場を、
夫とふたりで、ウロウロと歩きました。^^


アンコールワット・西面です。西面の中央にある、一番大きな門が大塔門。写真では、左端に写っています。後ろには、5本の尖塔が美しくそびえていました。

すべてを見終わった達成感もあり、誰も歩いていない西面広場を独り占めして歩くのは、最高の気分でした。

広場の向こうに、夫がいました。

このときに、夫が撮ったアンコールワット。

こうして、ゆっくり、ゆっくりと、アンコールワットにお別れしながら歩きました。

夫が待っているところまで歩いていくと…、

その向こうには聖池がありました。さらにその右側に、ずうっと続いているのは、西参道。

西参道まで来ました。参道は、西塔門へとまっすぐに続いています。

これから、この参道を歩いて帰ります。


最後に、もう一度ふりかえって、
アンコールワットをながめました。


午後の日差しを浴びたアンコールワットは、最高に美しい姿を見せてくれました。


「アンコールワットをくまなく歩く。」
と決めたミッションは、これで終わりです。^^


旅の総合企画立案担当・多動夫です。(実は、やりたいことをやりたいとおりにやってるだけ。😄)

言わずと知れた、MIYO家の経理部長。🤣(エアチケとホテルの手配もやってます。)

自分の足で、くまなく歩いた、アンコールワット。

想像していたよりも、ずっと楽しい旅でした。

そして、アンコールワットが、少しずつ小さくなっていきました…。

環濠です。


この、お濠にかかる橋を渡ったら、その先に、
アンコールワットの入退場口があります。


これにて、ミッション完了。😄


すべての回廊を歩きとおした、
その所要時間は、4時間とちょっとでした。
超長い連載になるのがわかっていたので、
書き始めるまでにとても迷いましたが、
今は、書いてよかった、と思っています。


一日も休まず、
夫が入院しても手術しても退院しても
書き続けた日々でしたが(アホ)、
みなさまに読んでいただけることが、
大きな励みになりました。


おかげさまで、夫は、2月26日に退院しました。
経過も良く、現在は自宅療養中です。
ムラゴンのみなさまから、
温かいコメントをいただいたことも、
とてもうれしかったです。^^


ありがとうございました。


…ということで。
たいへん長い連載になりましたが、
これはほんのひとくぎり。
ここまでは、17日の前半にしかすぎません。
このあとさらに、
アンコールトム、タプロームと、
一日かけて歩き続けます。😂😂


とりあえず、ここで少し休んで、
また続きを書いていきたいと思います。


(つづく)

ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 46 - アンコールワット⑲ 第三回廊(王のバルコニー)(2024年1月17日/6日め)

2024年1月17日 アンコールワット・第一回廊と十字型テラスの前で。後ろに見えているのが、中央祠堂と4つの副祠堂です。(カンボジア・シェムリアップ)


1月17日(日)- 6日め


第三回廊で、十字型回廊を通り、
中央祠堂を歩きました。
最後に、第三回廊の外周となっている、
回廊を歩きます。


中央祠堂をの中から見た、外周回廊です。

一辺60mの回廊の中を歩きました。

回廊には、いくつもの仏像が置いてあります。

これは回廊の外側。美しい連子窓が並びます。

回廊の中から外を見下ろしました。これは、ついさっき歩いた第二回廊です。第三回廊との高さの差は13m。

その第二回廊の後ろで、少しだけ見えているのが第一回廊。

手前が第二回廊。その後ろが第一回廊です。

回廊の内側を歩き続けました。途中には、バルコニーのように突き出た部分があり、そこから外を眺めることができます。

ひとつひとつのバルコニーで足を止め、そこから、下界を眺めました。

ああ、あれは東参道です…。


裏アンコールワットから伽藍を抜けて、
東塔門まで歩き続けた、
あの東参道が、密林の中に見えました。
ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 36 - アンコールワット⑨ 東参道と東塔門(2024年1月17日/6日め)


そして、見逃すことのできない景色が、近づいてきました。

歩くほどに、はっきりと見えてきます。

到着です。バルコニーの真正面に見えているのは、はるかに続く西参道。

まっすぐに延びた西参道の奥に、西塔門も見えます。

左右に延びる、200mの西塔門。この西塔門のずっと向こうからここまで、ひたすら歩いてきたのでした。


王様しか入ることができなかった、第三回廊。
そこには、はるかに続く西参道と西塔門を、
一望できるバルコニーがありました。


かつて、この景色を眺めることができたのは、
ただひとりでした。
王様だけが手にすることができたその景色を、
今は誰もが見ることができるのです。
いい時代に、生まれました。


さらに、左方向へと歩き続けます。このとき、西参道の奥に見えている、白い物が気になりました。


み「遠くに見えている、
  あの白くて丸いのはなんだろうね?
  プラネタリウムみたいなのがあるよね?」
夫「うーん、たぶん、気球じゃないかな?」
み「あっ そうか! うんうん。」


「アンコールワットと気球」という、
なさそうでありそうなとりあわせに、
ふたりで大笑い。
最近、世界各地の観光地で、
観光客向けの気球を置いてあるところを
よく見かけるようになりました。
空から見下ろすアンコールワット。
それもまた、たいそう美しいことでしょう。^^


そんなことを言い合っているうちに、回廊の4辺をすべて歩き終わりました。

聖域の見学を終え、そろそろ下界に戻ります。

第三回廊で最後に撮ったデバター。

ふたりが、笑顔で見送ってくれているかのようでした。

帰りは、またまたこの階段。行きも帰りもコワかった~。

それでも、夫の写真を撮る余裕はあったようです。🤣🤣


アンコールワットの旅日記は、
あともう一回だけ連載します。


ようやく、すべての回廊を歩き終えました。😄


(つづく)

ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 45 - アンコールワット⑱ 中央祠堂(舞い降りる女神たち)(2024年1月17日/6日め)

2024年1月17日 アンコールワット・第三回廊で。(カンボジア・シェムリアップ)


1月17日(日)- 6日め


第三回廊に来ています。


第三回廊に設けられた急な階段をよじ登って…、

第三回廊に入ったところです。

第三回廊の四隅にある、副祠堂。


その第三回廊の中央にあるのが、
中央祠堂です。


中央祠堂の高さは、65m。
聖域であるため、第二回廊からは
なかなか見えないように設計されていました。
その中央祠堂は、第三回廊に入ると、
急にその姿を現し、全体を見ることができます。


夫の後ろにあるのが、中央祠堂の下の部分です。

そしてこれが、中央祠堂の全景。


第三回廊は、かつて、
王様しか入ることができない聖域でした。
その第三回廊の中でも、真ん中にある中央祠堂は、
「王が神々と交信する場」です。
つまり、究極の聖域でした。


この美しい姿の全景は、第三回廊に入らないと、見ることができません。

中央祠堂の表面には、ヒンドゥー教の神々や女神たちの精巧なレリーフが刻まれています。

高くてはっきりとわからなかったのですが、「ラーマーヤナ」に登場する猿神ハヌマーンやラーマ王子の姿も彫られているそうです。

精巧に造られている連子窓と、その隣りにいるデバターたち。

そしてやはり見逃せないのは、ひときわ美しく彫られている、たくさんのデバターたち。

背景のレリーフも見事です。

必見なのは、少しずつ高さをずらして彫られている、デバターたち。


胸に染みるようだったのは、
中央祠堂の中にいる、5人の女神たち。
王が神に跪いたときに並んで見えるように、と
計算して彫られていました。


つまりこんな風に見えるのです。まるで、たくさんの女神が天から舞い降りてくるようです。


中央祠堂の中心部分は石の扉で塞がれていて、
現在は四方の扉の前に、
それぞれ仏像が置かれています。


これはそのひとつ。高さ3mの仏像です。


かつてヒンドゥー教寺院であった頃、
この場所には、ビシュヌ神像が置かれていました。
その後、アンコール朝がアユタヤ朝に敗れ、
アンコールワットは、
ヒンドゥー教寺院から仏教寺院に変わります。
そのため、中央祠堂のビシュヌ神像は、
仏像に置き換えられました。


このときに撤去されたビシュヌ神像は、
壊されることもなく、
現在は、西塔門に安置されています。


かつて中央祠堂にあったビシュヌ神像です。高さは約4m。カンボジアの人々は、「自分たちの先祖の神様であった存在」として、このビシュヌ神像を現在も敬い、大切にしています。
このビシュヌ神像について書いた日記です。
ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 29 - アンコールワット② 西参道の撮影隊(2024年1月17日/6日め)

900年前、究極の聖域に置かれていた、アンコール芸術の傑作。美しいお顔です。

プノンペンで宿泊した、Okay Boutique Hotel の入り口にあった巨大な像は、このビシュヌ神像のレプリカであったのだと、いまさらですがようやく気付いたのでした。🤣🤣
このときの日記です。
ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 13 - トゥクトゥクでホテルへ(2024年1月15日/4日め)

青息吐息でようやくたどり着いた、中央祠堂。😂

中央祠堂の中から外を見たところです。奥に見えているのは、第三回廊の外周となる通路です。


次回は、この、第三回廊の外周を歩きます。
アンコールワットに着いて、
既に3時間、休みなく歩き続けています。
かなり疲れていたのですが、
最後の元気をふりしぼって、再び歩き始めました。


いまここ。😄 そして、あともう少し。


(つづく)