MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 38 - 臨江閣⑥ 別館2階と、るなぱあく(2023年1月18日/3日め)

2023年1月18日 るなぱあくで。(群馬県前橋市)


1月18日(水)


臨江閣別館・2階に来ています。



うれしくて、180畳の大広間を、うろうろと歩き回るMIYO。他に訪れる人はなく、貸し切り状態でした。笑

板の間の部分は、一部がガラス張りになっており、内部の構造を見ることができます。

大広間の両側には、長い縁側が設けられています。

窓ガラス越しに、茶室の屋根が見えました。

手すりの、美しい細工にもご注目ください。^^

縁側は、大広間を囲むように、2階全体にぐるりと設けられています。その縁側を歩いて、2階部分を一周してみました。

窓の外には、広大な庭が見えます。

その左側にあるのは、群馬県庁本庁舎(地上33階建て)。

夫が、窓ガラスにへばりついて撮った写真です。🤣🤣


ほんの2日前には、
この県庁ビルの展望ホールから、しょんぼりと、
臨江閣を見つめていたんですけどね…。笑
今はその県庁ビルを、黄金色の夕陽と共に、
笑顔で眺めています。^^


臨江閣本館も見えました。まっすぐに延びた渡り廊下の先に見える、本館。夕陽に照らされて、ほんの少し色づいていました。


2階部分をぐるぐると歩いているうちに、
閉館時間になってしまいました。
まだまだ名残惜しいのですが、
私たちも、そろそろ帰路につく時間です。


1階へとつづく階段を降りました。

階段は折れ曲がっているため、いくつかの親柱(主柱)が設置されていました。親柱の上部には、擬宝珠(ぎぼうしゅ)という飾りを設けてあるのですが、そのどれもが、木目を活かした美しい文様を描いていました。

こちらは、にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)の離れで見た、たも材の階段と親柱です。たも材の木目で仕上げてあるものとして、これほど見事な作品は、現在では他に類を見ず、にしん御殿(旧青山別邸)の美しさを象徴する作品のひとつとなっています。(国指定登録有形文化財)(2021年6月28日 北海道小樽市)

親柱をよく見ると、やはり、木目模様がきれいに配置されているのがわかります。

このときの日記です。
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 40 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)②(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


どの建造物にも、それぞれの持ち味があり、
階段ひとつを見るだけでも、
同じものがありません。
興味はつきません。^^


最後にもう一度、夕陽に照らされる臨江閣別館を眺め、お別れしました。


前橋市が誇る、美しい迎賓館・臨江閣。
明治17年、時の県令・楫取素彦が、
前橋市に迎賓館がないことを憂い、
市内有志らの協力と寄付により、
建築したと言われています。
建設にあたっては、多くの市民有志からも、
計6000円が集められました。
このとき楫取県令は、茶室部分を寄付しています。
また、建設した後も、臨江閣の一切の経費は、
市の有志による寄付金で賄われました。
このようにして、
前橋町民の力で作り上げたのが、
臨江閣でした。


その臨江閣を訪ねるということは、
かつて前橋に生きた人々の思いに触れ、
群馬県の歴史の一端を知るということでした。
臨江閣だけでなく、その周辺におよぶ、
前橋城跡の広大なエリアについても、
受け継いだものを
より良く利用して行こうとする
人々の気概を感じました。


臨江閣は、前橋市の宝。
群馬県の宝。
そして、日本の宝です。


全国にある、日本の宝。
それをひとつひとつ見て歩く旅は、
本当に楽しく、そして深いと
つくづく思います。


さて。
ここでNさんにお別れし、
東京に戻るつもりでした。
ところがNさん、
「もうひとつ、
 見て欲しいところがあるんだよ。」
と言うや、歩き始めました。^^


私たちも、わけがわからないままに、
Nさんの後をついて歩きました。笑
向かったのは、臨江閣のお向かいにある、
小さな遊園地です。^^


「え? 遊園地?」と、戸惑うMIYO。笑

ここは、「るなばあく」と言います。


【るなばあく】
前橋市立の遊園地で、正式名称は「前橋市中央児童遊園」。2004年(平成16年)4月、市民公募によって「前橋るなぱあく」の愛称が付けられました。コンセプトは「にっぽんいちなつかしいゆうえんち」
開園は、1954年(昭和29年)11月。面積はサッカー場2面ほどで、飛行塔、豆汽車、ミニヘリコプター、豆自動車、メリーゴーラウンド、くじらの波乗り、ウェーブスターライド、くるくるサーキットの8種の大型遊具、木馬5台、小型遊具11台という、小さな遊園地です。
入園料は無料。大型遊具は一人10円、木馬と小型遊具は1回10円で、日本一安い遊園地と言われています。3歳以下の子供に付き添う大人は無料です。これは、「低年齢児の安全確保のために、付添者の添乗を義務付ける代わりに、料金を取らない」という、安全を優先した考えによるものです。
遊具の中には、全国的に貴重なものが多数あります。まず、もくば館とそこに設置されている5台の電動木馬は、1954年(昭和29年)製で、2007年(平成19年)に、国の登録有形文化財に指定されました。稼働中の遊具で登録文化財となっている、希少な例です。また、自走式ジェットコースターであるウェーブスターライドは、8人乗りという極めて小さなものです。
2017年(平成29年)度の延べ利用者数は約171万人で、1954年(昭和29年)の開園以来、最多を記録しました。

るなぱあくのキャッチコピーは「日本一なつかしい遊園地」で、「ゆっくり大きくなる子どもたちのために」をモットーに運営を行っており、市民の大きな支持を得ています。


ちょうど営業が終わったところで、遊具にはカバーがかかっていました。残念。笑

るなぱあくについて、熱く語るNさん。笑


Nさんに教えていただかなかったら、
るなぱあくの存在すら知りませんでした。
「登録有形文化財の遊園地」なんて、
なかなか見ることはできません。
貴重なスポットを案内してくださり、
ありがとうございました。^^(→Nさん)


そして今、このブログを書いているときに、
「登録有形文化財の遊園地」を、
以前にも訪れたことがあるのを
思い出しました。


北海道函館市にある、函館公園「こどものくに」です。(2022年4月19日 北海道函館市)
(このときの日記は、まだ書けていません。😅)

レトロ感満載ですね。^^


【函館公園「こどものくに」】
1956年に開園しました。以来、地域に根ざし、70年近くにわたって愛され続けている遊園地です。管理運営しているのは、北海興業株式会社という家族経営の民間企業で、開園当初から代々「こどものくに」を守っています。
「日本最古の観覧車(1950年製)」は、2019年(令和元年)に国の登録有形文化財に指定されました。また、開園当初からある飛行機や、日本では珍しい吊り下げ式のメリーゴーランドなど、レトロな遊具がたくさん残っています。
入園料は無料。乗り物は、ひとり一回300円です。


目玉は、「日本最古の観覧車」。二本の支柱間に直径8メートルのホイールを取り付け、その外周に8台のゴンドラを吊り下げています。1950年(昭和25年)、函館近郊の七飯村(当時)の大沼湖畔に造られ、1965年(昭和40年)に、現在地に移されました。現存する、国内最古の観覧車として、たいへん貴重なものです。

見ちゃったからには、乗らずにいられない、私たち。函館での、思いがけない思い出になりました。笑

日本最古の、観覧車です。笑


次に前橋に行ったときには、
ぜひ、焼きまんじゅうを食べて、
るなぱあくで、
1954年製の電動木馬に乗りたいと思います。😄😄


(つづく)

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 37 - 臨江閣⑤ 本館2階から別館2階へ(2023年1月18日/3日め)

2023年1月18日 臨江閣別館で。(群馬県前橋市)


1月18日(水)


臨江閣本館・2階を見学しています。


最後に、「一の間」の隅にある、
「控の間」を見ました。
3畳の、小さな部屋です。


ここには、どんな人が控えていたんでしょうね…。^^


これで、すべての部屋の見学が終わりました。


階段はふたつあります。今度は、ふたつめの階段から降りてみます。^^

こちらの階段の手すりにも、波の意匠が施されています。

これはひとつめの階段です。同じ細工ですね。^^


再び、渡り廊下を歩いて、
別館に戻りました。


臨江閣の全体図です。周囲には、前橋城跡の二の丸、三の丸跡を利用した前橋公園や、みどりの散策エリアが広がっています。


臨江閣があるエリアは、
利根川の清流を見下ろし、
上毛三山や遠く浅間山の噴煙を望む、
景勝地にあります。
広い敷地内は、さちの池を中心に、
 野外ステージ、市民広場、児童遊園地、
 花壇、公民館、競輪場
などが配置されています。
前橋城跡を利用して、
見事な都市計画が行われたんですね…。


さて、次は臨江閣別館です。
別館は、大規模な2階建になっています。
1階は事務管理エリアになっていて、
売店やカフェもあるのですが、
このときは閉まっていました。
が、2階部分は見学することができたので、
2階に直行しました。

【臨江閣別館】
本館は迎賓館で、数寄屋風建築ですが、別館は書院風の貴賓館として建てられました。大人数や多目的での利用を想定して、座敷、洋間、そして180畳の大広間を設けてあります。大空間を実現するために、床組を鋼材で補強するなど、近代的な構造手法を併用しています。


2階にあがると、いきなり、
大広間が目に飛び込んできました。


どーーーーーーん。なんと、180畳です。😄

MIYO、大喜びで写真撮ってます。😅

このときに撮った写真です。

次は床の間に向かっています。笑

180畳だけあって、床の間も大きいですね。違い棚と付書院が左右両側にあります。

掛軸は、一本400万円の費用をかけたという、小室翠雲画です。右が赤城山水図で、左が妙義山水図(複製)だそうです。

「飾壺 耕右エ門」と書いてありました。「有田焼飾り壺 耕右衛門花鳥図」のようです。

そして右端の壺は…、

九谷焼美術最高の職人と言われる、秀山作の九谷焼です。


(説明文より)
明治天皇は、93000首を越える和歌を詠まれたと言われています。この壺は、その御製が細字で隙間なく書き込まれた逸品です。九谷焼は、海外でもジャパンクタニと呼ばれて高く評価されていますが、臨江閣が国の重要文化財に指定されたことを記念し、小松屋陶器店から寄贈されました。
*小松屋陶器店(前橋市)は、江戸時代から260年、11代続く陶器店だそうです。


字が細かすぎてよくわかりませんが、全部で何首書き込まれてるんでしょうね…。😅

その右にある、付書院です。ここでは、棚板を置かない、平書院になっています。組子障子がすばらしいですね。

これは左側の付書院です。左右両側に付書院のある床の間を見るのは初めてです。笑


【付書院】
付書院とは、室町時代以後の書院造りに見られるものです。床の間の側面に窓を設け、板張りで机のような部分を作りました。通常は縁側に張出しており、前に明かり障子を立ててあります。

付書院はさらに、付書院と平書院の2種類に分けられます。
付書院棚板と明かり取りをするための障子で構成されています。棚板を付けることになるため、その分奥行きを取る必要があり、縁側や外部に張り出すことになります。
平書院明かり取りに使う障子しかありません。棚板がなく、外側に対して張り出す必要性がないことから、多く採用されるようになりました。

付書院が始まったのは鎌倉時代から室町時代です。もともとは、貴族や僧侶の住宅に読書用の板張りとして作りつけされた出文机でした。これが時代とともに変化して、座敷の装飾になりました。


旧商家丸一本間家(北海道増毛郡)の客間です(国指定重要文化財)。左端に、棚板のある付書院が見えます。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 9 - 旧商家丸一本間家④(客間、次の間、上勝手、台所、下勝手)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

おもしろかったのは、旧花田家番屋(北海道留萌郡)のはなれです(国指定重要文化財)。ここでも、左端に、棚板のある付書院がえてあります。この付書院を廊下側から見ると…、
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 20 - 旧花田家番屋⑤(はなれと便所)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

こうなっていました。笑 小人が付書院を支えています。なんともかわいらしい。^^


以前は、付書院という言葉すらも
知りませんでした。
けれど、コロナ禍で海外旅行ができなくなり、
国内を旅行するようになってから、
あちこちで、付書院を見るようになりました。


床の間に何気なく設えられているものですが、
「付書院」という言葉を知るかどうかで、
旅先でのおもしろさが変わってきました。
今まで見過ごしていた物を、注意深く見て、
より楽しめるようになったのです。


「知る」ということはすごいことだな、
と思います。
小さなことでも、それを知っていれば
自分のものの見方が変わることもあります。


日本のあちこちを旅するなかで、
今まで知らなかったものを、
数多く見て、楽しんできました。
そういう体験を重ねることによって、
以前よりも、自分の世界が広がり、
おもしろいと思えるものが、
さらに増えているように思います。


こんなふうにして、旅行というものは、
回を重ねるごとに、より深く、
より楽しくなっていくのかもしれません。^^


(つづく)

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 36 - 臨江閣④ 本館2階(2023年1月18日/3日め)

2023年1月18日 臨江閣本館の2階で、Nさんと。(群馬県前橋市)


1月18日(水)


臨江閣本館に来ています。
1階を見学したあと、次は、
階段を上がって、2階に行きました。


2階部分には、「一の間」「次の間」のふた部屋があります。


階段を上がって、1階から2階に出たところです。通常、昔ながらの階段は、急な勾配であることが多いのですが、この階段は違います。天皇が行幸する際に、天皇のために、緩やかな勾配の階段に改造したのだそうです。

手すりには、打ち寄せる波の意匠が描かれています。

階段を上がりきると、廊下越しに、ふたつの部屋が見えました。一の間(右)と次の間(左)です。

まずは、右側の「一の間」に入りました。1893年(明治26年)に、明治天皇の御座所として使用されたため、「御座所の跡」と言われています。

ふすまには金がちらしてあります。また、畳をはずせば、能舞台として使用できる設えになっているそうです。

やわらかな曲線を描く照明器具の美しいこと。

床の間にも、御簾が提げられています。

この地には、歴代の天皇が訪れています。明治天皇の行幸は、明治11年と26年で、そのときの行在所が臨江閣となっています。

大正天皇は、明治35年と41年に、臨江閣に宿泊しました。

昭和天皇の行幸は昭和9年。このときの行在所は群馬県庁で、群馬会館も訪問しています。

「一の間」からそのまま後ろに下がると、「次の間」に入ります

鴨居の、次の間側には、御簾(みす)を下げた金具が現在も残っています。

こちらの照明もすてきですね。貼られているのは、雲龍紙でしょうか。和紙の模様を透かして、優し気な光を放っています。
(雲龍紙は、以前、田中本家博物館の日記で書きました。その時に見たのは、「雲龍紙のお品書き」でした。)
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 12 - 田中本家博物館の江戸時代料理再現食事会①(2021年3月27日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

一の間(奥)と次の間(手前)です。

次の間は20畳。広いです。ここに、大勢の従者が控えていたのでしょうか。

窓際に、長い縁側が続いています。

窓ガラス越しに見えたのは…、

広大な庭。


どこかで見たような情景でした。
実は、臨江閣に来たときから、
「どこかに雰囲気が似てる。
 どこで見たんだっけ?」
と、ずっと気になっていました。
でも、縁側からこの庭を眺めたときに、
ようやく思い出しました。


堀田邸です。
千葉県最後の佐倉藩主・堀田正倫が、
1890年(明治23年)に佐倉に設けた邸宅です。
コロナでも白鳥。寒風の中を千葉へ 3 - 旧堀田邸(さくら庭園)①(2020年12月20日) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


美しい細工の鬼瓦のある玄関(堀田邸)。この邸宅も、国の重要文化財です。(2020年12月20日 千葉県佐倉市)

こちらは、臨江閣別館の玄関。同じころに建てられたからでしょうか。玄関の部分が似ています。

長く延びる縁側の向こうに広がる、広大な庭園(堀田邸)。


まあ、広間があって、長い縁側があって、
その向こうに広い庭があるというのは、
この当時、どのお屋敷もそうだった、
と言われてしまえばそれまでなのですが…。😅


スマホを片手に、Nさんに、堀田邸のことを説明している、MIYO。(←アホ。笑)

「次の間」のつきあたりにある窓の向こうには、臨江閣別館が見えました。

手前が渡り廊下。そしてその向こうに見えるのが、臨江閣別館です。

臨江閣本館の2階で話す、NさんとMIYO。

35年の、時を越えて。


次回は、臨江閣別館を見学します。


(つづく)

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 35 - 臨江閣③ 本館1階(奥座敷と板の間)(2023年1月18日/3日め)

2023年1月18日 臨江閣本館の2階で、Nさんと。(群馬県前橋市)


1月18日(水)


臨江閣本館に来ています。


臨江閣本館です。このあと別館に行き、その2階から眺めたときに撮った写真です。


4つの和室をずずうっと歩いたあと、
さらにその先にある、
「奥座敷」に行きました。



奥座敷です。「一の間」(奥側)と「次の間」(手前側)の二部屋で構成されています。

手前側の「次の間」には、臨江閣の建設のために尽力した、初代群馬県令・楫取素彦(かとり もとひこ)のふるさとである、萩についての展示パネルがありました。右は、楫取素彦のひとりめの妻、寿です。

つづいて奥側にある、奥座敷の「一の間」です。

ここには、楫取素彦とその妻・寿に関する展示がありました。


はじめは、
どうして萩の展示が群馬県に?
と、戸惑ったのですが、
楫取素彦は、萩の出身なんですね。^^
そして彼の妻である寿は、
吉田松陰の妹です。
素彦は寿を深く愛していて、
寿が病死した後、
「寿が亡くなるときに着ていた衣類を
 洗いたくない。」
と言ったそうです。


その後周囲の勧めで、素彦は、
寿の妹・文(後の美和子)と再婚します。
夫婦の片方が亡くなると、
その兄弟と再婚するのは、
当時は珍しいことではありませんでした。


素彦は文と、幸せな晩年を過ごし、
84歳でこの世を去ります。
その際、勲一等瑞宝章が贈られました。
その9年後、1921年に、
美和子もひっそりと息を引き取ります。
美和子の激動の生涯は、
テレビ番組でドラマ化されています。


【花燃ゆ】
明治維新で活躍する志士を育てた吉田松陰の妹である、文(美和子)の物語です。文は、長州藩の運命に翻弄されながらも、松陰の教えを胸に、志を持って維新の世を力強く生きぬきました。その生涯は、2015年1月から1年間、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で放送されました。


楫取美和子と「花燃ゆ」。


また脱線しました…。😅
話を臨江閣に戻します。笑


奥座敷・「一の間」の縁側に立つと、屋敷内が一望できます。左側に見えるのは、奥座敷・「控の間」。そして縁側の向こうには、さきほど歩いた4つの部屋が一列に並んでいます。


このほかにも、1階部分では、
階段下のスペースを利用して、
様々な展示がありました。


かつてこの地にあった、前橋城の模型です。

この模型を平面図で見ると、こうなります。(画像をお借りしました)


【前橋城のその後】
大政奉還により、江戸幕府が終焉しました。そして1871年(明治4年)、廃藩置県により、前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれました。このときに、他の建屋は取り壊されました。そしてまもなく、府県統合によって群馬県が成立し、県都が高崎から前橋に移されます。その後本丸御殿は、1928年(昭和3年)に老朽化で取り壊されるまで、群馬県庁舎として使われました。
現在、本丸跡地には、1999年(平成11年)に竣工した、鉄筋コンクリート建の群馬県庁本庁舎(地上33階・地下4階)が置かれています。また、二の丸跡地には、前橋市役所が置かれ、三の丸跡地は前橋地方裁判所になっています。三の丸外郭の地は、1905年(明治38年)に整備され、前橋公園となりました。この他、前橋城址には、移築された群馬県庁昭和庁舎と群馬会館の2つの近代建築遺産がある。
なお、臨江閣、るなぱあく(共に、国の登録有形文化財)が位置するのは、東西300メートル、幅70メートルにも及ぶ前橋城の大空堀(自然の地形で、人工の壕ではない)跡になります。
現在の城址は市街化が進み、城の面影はほとんどありませんが、2021年(令和3年)、発掘調査によって大手門の石垣が発見されました。


お城の本丸が、そのまま、
群馬県庁舎として使われたんですね…。😮😮
そして、一昨日私たちが歩いてきたところは、
とりもなおさず、前橋城の跡地だったのだ…
と、このときに初めてわかりました。


かつての群馬県庁舎の模型です。前橋城の本丸御殿が、そのまま群馬県庁舎として使われました。なんと斬新なSDGsでしょうか。😄

上から見ると、さらに壮観ですね。(これは、1階板の間にあった模型です。)

当時の、玄関部分の写真です。これが群馬県庁舎ですよ。😮😮

そして二の丸跡地に置かれた、前橋市役所です。

鐘楼の模型(1/13)もありました。時の鐘・撞鐘堂(しょうきょうどう)と呼ばれました。


【鐘楼】
かつては、前橋城にも時の鐘がありました。鐘楼は、江戸時代中期、松平家が建て、当初は八幡宮の境内に神宮寺といっしょに祀られていました。が、明治に入り、神仏分離から神宮寺は廃寺となります。その時に寺の鐘の処分が検討されましたが、町民の希望で時の鐘として存続しました。
その後は、時の鐘として町民に親しまれていました。1883年(明治16年)の大火で鐘楼が焼失しましたが、すぐに寄付で再建され、鐘も元どおり据え付られました。日本が太平洋戦争に突入すると、金属供出で、家庭金物などと一緒に回収されました。が、溶かす直前で終戦となりました。戦後、奇跡的に発見されて寺に戻され、今でも親しまれています。鐘楼は戦火を逃れ、戦後まで存在し続けたそうです。


1階部分には、さらに「板の間」があり、ここも展示スペースになっています。

板の間の展示テーマは、「臨江閣と近代前橋の歩み」でした。

空襲後の市街地。前橋市も焼け野原になりました。

「公用アリ役場ニコイ」という貼り紙に驚きました。召集令状を渡す家が留守の場合、この紙が貼られたそうです。命がけで出征する人に向かって、この言い方はないと思います。😔

かつて臨江閣に取り付けられていた品々も保管されていました。

改修前の臨江閣別館大屋根にのっていた鯱瓦(実物)です。現在、別館の大屋根を飾っているのは、これを元に作製された複製品です。この写真だけでは大きさがわかりにくいので…、

夫と、そしてNさんにも並んでいただきました。笑

忘れじの、西双版納。^^


次回は、臨江閣本館の2階を歩きます。


(つづく)

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 34 - 臨江閣② 本館1階(控の間から一の間まで)(2023年1月18日/3日め)

2023年1月18日 臨江閣で。Nさんといっしょに、本館への渡り廊下を歩きました。(群馬県前橋市)


1月18日(水)


あこがれていた、臨江閣に来ています。
別館の玄関から入り、長い渡り廊下を歩いて、
本館に入りました。


本館の外観です。右側に見えている渡り廊下で、別館とつながっています。

本館です。庭に面して、長い廊下(縁側)がのびています。

その縁側に沿って、四つの部屋が並んでいます。


【臨江閣本館】
1884年(明治17年)9月竣工。当時の群馬県令・楫取素彦(かとりもとひこ)の提言がきっかけとなり、前橋の企業や町民有志の協力と募金により、迎賓館として建てられました。建物名の「臨江」は「利根川に臨む」という意味です。官民が力を合わせて造った迎賓施設は、全国的にみても大変希少な存在です。なにより驚くのは、工期が僅か5か月足らずであるにも関わらず、手の込んだ数寄屋風の意匠が随所に見られること。高度な職人技に加えて、作業の効率化など、当時の建築技術の高さが伺えます。

建物は、木造2階建て、入母屋造、桟瓦葺き。1階には「一の間」「次の間」「三の間」「控の間」を設け、建物西側の突出部には「奥座敷」「次の間」があります。一の間は、畳をはずせば能舞台として使用できる設えになっています。2階には、「一の間(御座所)」「次の間」「控えの間」があります。庭に茶室を併設するなど、明治前期における貴顕接待施設の様相を呈しています。1893年(明治26年)には、10月20日から21日にかけて、近衛師団小機動演習天覧のための行幸の行在所となり明治天皇が宿泊しました。
臨江閣本館及び茶室附棟札には、現在も、明治天皇が利用した貴賓室や能舞台などが残されており、1986年(昭和61年)に、群馬県の重要文化財に指定されました、また、2018年(平成30年)に、国の重要文化財に指定されています。


廊下に沿って並ぶ、4つの部屋。手前から、「控の間」、「三の間」、「次の間」、そして「一の間」です。

まずは「控の間」から「三の間」へと歩きました。

左が「三の間」で、右が「控の間」です。

そして、「次の間」から「一の間」へと続きます。

「一の間」です。さらにその奥には、「奥座敷」があります。

この「一の間」は、平成29年の竜王戦の対局室として利用されました。

庭が最も広く見渡せる、一番いい位置に、「一の間」があります。

「一の間」から見渡した眺めです。廊下に沿って、「次の間」、「三の間」「控の間」が並んでいます。ガラスの向こうに見えているのは、別館とつながっている渡り廊下です。

臨江閣本館の見取図です。縁側に沿って、4つの部屋が並び、さらにその奥に奥座敷がふたつあります。


次は、奥座敷に行きます。


(つづく)