MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 95 - 旧余市福原漁場⑦ 文書庫外観と主屋・漁夫溜まり(飯台)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場・主屋で。右は文書庫です。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場での日記のつづきです。


文書庫の見学を終えて、外に出ました。次は、この建物の裏側にまわってみます。

文書庫の右側面です。ここから見ると、3階建ての蔵であることがはっきりとわかります。そして漆喰で造られた土蔵を守るために、全体が板で覆われていることも見てとれます。

とても珍しい造りですね。


さて、ここまで、敷地の奥から手前に向かって、
 網倉
 米・味噌倉
 納屋場
 雑倉
 石蔵
 文書庫
と歩いてきました。
次はいよいよ、いちばん手前にある、
主屋の中に入ります。



主屋は、文書庫のすぐ隣りに建っています。


【主屋(おもや)
漁場経営者(親方)家族と漁夫(ヤン衆)が生活した建物で、別称「番屋」とも言われました。内部は、中央の土間(ニワ)によってふたつ(畳の間と板敷の間)に分けられています。畳の間は、親方とその家族の居住部分で、板敷の間は、「ヤン衆」と呼ばれた出稼ぎの漁夫たちが寝泊まりしていました。ニシン漁の最盛期には、30人以上のヤン衆がこの主屋で寝食を共にしていました。

漁場の所有者は、創業者の福原家から小黒家、そして川内家へと移り変わって行きましたが、建設当時である、福原家時代の主屋は、建坪が125.5坪でL字型でした。川内家の所有になったあと、大正5年頃には、半分近くの73.5坪に縮小・改築されています。主屋内部では、立派な柱や梁が今も残っています。周囲の建具の中断には素透しのガラスを入れて、見通しを良くしたり、床に埋め込み式の飯台を設けるなど、独自の工夫が随所に見られます。


30人以上のヤン衆が寝起きしていただけあって、約6割に縮小された現在のものでも、かなり大きな建物です。

それでは、中に入ってみます

玄関を入ると、まず目に入るのが、裏口までまっすぐに延びた土間(ニワ)です。この土間を境に、左側にヤン衆が寝泊まりした部分があり、右側は、親方とその家族の居住部分になっています。これまでに見てきた番屋は、どれもこれと同じような造りになっていました。

まずは左側から見て行きます。ここは板敷になっていて、ヤン衆が生活する場所だったので、「漁夫溜まり」と呼ばれていました。

玄関に一番近い部分は、ヤン衆が食事する場所(飯台)でした。テーブルになっている板は着脱式で、このようなコーナーが、板の間の周囲にコの字型に設けられていました。食事が終わると、板をスライドさせて、座る部分に蓋をします。これにより、板の間をより広く使うことができました。また、ヤン衆が座る部分が床に埋め込み式になっているため、土足で利用することができました。これは、ヤン衆が履物を履いたままで土間から直接ここに入り、すぐに食事ができるようにするための工夫でした。

こんな風に座って食事していたんですね。^^

飯台と座る部分を、反対側から撮った写真です。

食事に使われていたものです。食事は、「銀シャリ」と呼ばれる白米のごはんが食べ放題でした。おかずは、たくあん、ニシンのきりこみ(ニシンの内臓を除き、輪切りにして塩と麹で漬けたもの)、三平汁(糠ニシンと野菜の汁物)、ニシンの塩煮などでした。炊事は女性が2~3人で担当しましたが、一度に大勢の人の食事を用意しなければならなかったため、献立は毎日同じものであったようです。漁夫の食事は、沖弁当を船上で食べることが多く、漁の繁忙期には、過酷な労働のために一日に4 回~5回の食事をとっていました。また、もっこ背負いの人たちは、座って食事する時間を惜しみ、もっこを背負ったままで、おにぎりとたくあんを両手に持ち、歩きながら食事をとることもあったそうです。

食事をしている漁夫の位置からは、土間を隔てて、親方の居住部分がこんな風に見えます。たいした距離ではありませんが、土間のこちら側と向こう側には、大きな隔たりがありました。

飯台の部分からさらに土間を進むと、囲炉裏があります。

囲炉裏の上には火棚が設けられていて、濡れた手袋や履物を吊るして乾かしました。

「手がけ」という、作業用の手袋です。指先がよく破れるので、指の部分をたくさん作っておき、破れた指の部分だけを取り換えられるように縫い合わせてありました。

左:囲炉裏の上に設けられた火棚。高い天井から吊るされています。
右:囲炉裏から少し離れたところに、ストーブも置かれていました。


漁夫溜まりのようすは、次回に続きます。


(つづく)

コロナでも信州。歴史の宿を訪ねて、早春の信濃路を歩く - ダイジェスト(2023年3月13日-17日)

2023年3月17日 山寺常山邸で。(長野市松代町)


3月21日(火)


みなさま こんにちは。
長野県の旅から戻ってきました。
今回めざしたのは、
国の登録有形文化財になっている、
ふたつのお宿です。


1月に旅行した群馬県で、
登録有形文化財になっている
積善館に泊まりました。


幻想的な光を放っていた、積善館。(2023年1月17日 群馬県吾妻郡中之条町)

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 19 - 積善館① 国登録有形文化財の極上温泉宿(2023年1月17日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


その体験があまりにも感動的だったので、
他のお宿にも泊まりたくなりました。
調べてみたところ、
登録有形文化財になっているお宿って、
他にもあるんですね…。^^


で、群馬県のお隣りの長野県にも、
2か所あることがわかりました。
行ってみたい。
でも、その両方に泊まると、
我が家の予算(一回の旅行につきふたりで5万円)
を軽く超えてしまいます。


しばし躊躇したのですが、
2月の伊豆でかかった費用が
3200円だったことを思い出しました。


「2月と3月の予算を使ったと思えばいいか。」
と、勝手につじつまを合わせて、
ふたつの宿に予約を入れました。
全国旅行支援があったのも助かりました。^^


そしてもうひとつの目的地は、
田中本家博物館です。


初めて訪れたのは、2年前になります。
以来、ブログには書いていませんが、
実は、今回で5回めの訪問になります。
なぜこんなに何回も行くのかというと、
季節ごとに、
「江戸時代料理再現食事会」
が開催されるからです。


江戸時代から続く豪商・田中本家が、
御家老方をもてなした料理を、
所蔵する博物館級の器で再現します。
たとえば…、


徳利:染付 松竹梅 鶴模様 伊万里焼
蓋茶碗:錦手 蓋茶碗 伊万里焼
吸物:根来蒔絵 吸物椀 京漆器

コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 12 - 田中本家博物館の江戸時代料理再現食事会①(2021年3月27日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


お煎茶の茶碗が、清朝の青磁(白磁 花模様 中国青磁 清朝)だったのには、ひっくり返りました。😂😂


…ということで、
今回のメインは、この3か所、
ふたつの歴史的旅館と田中本家です。^^


豪華な出費が3つも続くのは初めてで、
ちょっと迷いましたが、
「こうして元気で自分で運転して旅行するなんて
 いつまでできるかわからないので、
 元気なうちに、行けるときに行ってはどうか?
 と思っています。」
という多動夫の言葉に、私も
「ええい、行ってしまえ!」
と、心を決めました。


3月13日(月)- 1日め


朝7時半に、自宅を出発。


もうすぐマスクが要らなくなりそう(?)なので、大切にしまってあった台湾製のマスクを使うことにしました。2022年6月の台湾フェスティバルでいただいたものです。^^


途中、ドライブを楽しみながら、
お昼すぎに、目指すお宿の近くに到着。


チェックインまでの時間を、「道の駅 北信州やまのうち」で過ごしました。(長野県下高井郡山ノ内町)


そして午後3時、「金具屋」に到着しました。
宿泊料金は、ふたり分で、
37400円(一泊二食消費税込み)です。
が、楽天ポイント(12900P)を利用し、
実質、24500円になりました。


「歴史の宿 金具屋」です。(この写真は、夜になってから撮りました。)


【金具屋】
長野県の渋温泉にある温泉宿です。 もともとは鍛冶屋でしたが、1758年に、敷地内に温泉が湧いたことを機に、鍛冶屋から宿屋になりました。「金具屋」という名は、鍛冶屋であったことに由来しています。大正から昭和にかけて鉄道網が完成し、都会からの観光旅行ブームとなったことから、六代目・西山平四郎が、それまでの療養宿にとどまらず、絢爛豪華な観光旅館とすることを目指しました。
西山平四郎によって1936年(昭和11年)に建設された、木造4階建ての「金具屋斉月楼」と「金具屋大広間」(棟梁は小布施の三田清助)は、2003年(平成15年)に国の登録有形文化財に認定されました。


毎日夕方5時半より、宿泊した人のための「金具屋文化財巡り」が開催されます。金具屋九代目・西山和樹さんの案内で、館内を歩きました。館内ツアーは、130畳の大広間の舞台から始まります。天井や背景の垂れ幕は、落成当時からのものだそうです。(登録有形文化財)

客室は、当時のままの設えです。それぞれの部屋を家にみたて、入口は玄関のように、そして廊下は、外を歩いていると思わせるような設計になっています。そのため、客室の窓にはあえてひさしがついています。玄関(右)や窓の組子障子なども、ひとつひとつが異なっているので、見ていて飽きることがありません。^^

金具屋の中でも粋なフォトスポットと言われている、「月見富士」。最上階から3階へ降りる階段の踊り場にある富士山です。天井から垂れる灯りは、月を表わしています。最上階にある客室からお客様が部屋を出た時に、富士が望めるようにとデザインされたそうです。金具屋を大きくした6代目当主は、日本全国を回ってアイデアを集め、館内の随所にこのような演出を仕掛けました。

そして夜はこうなります。4階建ての、金具屋斉月楼(登録有形文化財)。「千と千尋の神隠し」のモデルになったのではないか、と言われています。

夕食と朝食は、130畳の大広間(登録有形文化財)でいただきました。


金具屋の見どころは、
館内にまだまだたくさんあります。
お料理もおいしかったのですが、
全部載せていると4回くらい連載しそうなので、
割愛いたします。笑


3月14日(火)- 2日め


金具屋をチェックアウトし、
温泉寺と醸造元・玉村本店へ。


【温泉寺】
長野県諏訪市にあります。1640年(寛永17年)建立され、以来高島藩諏訪家の菩提寺となり、忠恒から8代忠恕までの歴代藩主の廟があります。開基は、高島藩初代藩主諏訪頼水。本堂と三門は焼失したため明治2年に高島城から移しました。中部四十九薬師霊場7番札所でもあります。多宝塔は、諏訪市有形文化財です。



【玉村本店】
志賀高原の麓にある、清酒「縁喜(えんぎ)」の酒蔵です。創業は、1805年(文化2年)。現在は、醸造元であると同時に、約150年前に建築された酒蔵の一部を改良し、アート・ギャラリーとして、玉村本店当主佐藤家代々の日本画を中心としたコレクションを展示しています(入場無料)。展示している作品のほとんどは、伊藤深水、福田平八郎、山口華楊、上村松篁など、酒が縁で当地を訪れた作家のものです。


玉村本店です。ガラス越しに、清酒の製造工程を見ることもできます。

2階にあるアートギャラリー。伊藤深水の絵がたくさんありました。

そして、上信越高原国立公園へ。またまた夫にだまされて、山の中を延々歩きました。

さんざん歩いて、多動夫がどうしても行きたいと言っていた、地獄谷野猿公苑に到着。「温泉に入るニホンザルたち」で知られているところです。(画像をお借りしました)


【地獄谷野猿公苑】
長野県の北部、上信越高原国立公園の志賀高原を源とする横湯川の渓谷に位置しています。 この地は、険しく切り立った崖に囲まれ、噴泉が絶えず噴煙を上げているため、地獄谷と呼ばれるようになりました。標高850mの地獄谷では、冬は1mを越える雪に覆われ、最低気温が-10℃を下回ります。人間を除く霊長類の生息北限とされる下北半島と比べても引けをとらない厳しい環境です。

このような場所にある地獄谷野猿公苑は、1964年の開苑以来、ニホンザルの興味深い生態を間近で観察できる場所として、広く世界中の人々に愛されています。また、多くの研究者や写真家も訪れ、数々の成果を上げています。
現在は、約130頭のサルが生息しており、「温泉に入るサル」として知られています。1970年、米「LIFE」誌の表紙に掲載され、海外にも報道されました。また、1998年の長野冬季オリンピックの際は、選手、大会関係者、報道関係者等、世界中からの人々が大勢訪れ、話題となり、広く世界中に知られるところとなりました。


訪れている人の95%が外国人でした。仲良くなったブラジル人グループと。「こんなところでブラジル人に会うとは思わなかった。」とポルトガル語でしゃべったら、逆にめちゃくちゃ驚かれました。笑

温泉につかって、器用に泳ぐサルくんです。

湯けむりの中、仲良く並んで、温泉のお湯を飲んでいました。笑


サルくんたちがあまりにかわいくて、
一時間以上見ていても飽きませんでした。笑
そして、この日の夜は軽井沢へ。
サンダンスリゾート軽井沢に2泊しました。



なぜ、軽井沢なのかというと、
ただ単に、安いからです。笑
メンバーになっているので、
ポイントを利用して、
一泊800円(ひとり)で泊まれます。
ふたりで2泊しても、3200円。
天下の高級リゾート地・軽井沢を、
単なる安宿として使ってます。(←アホ)


3月15 日(水)- 3日め


須坂市にある、田中本家博物館で、
江戸時代料理再現食事会に参加しました。
毎回、すばらしい器とお料理を堪能しています。


【令和5年3月 江戸時代料理再現食事会(案内状より)
今回は、1849年(嘉永2年)、五代 田中新十郎が、孫の初節句祝いとして、御家老の丸山様方をお招きしたときの料理を再現いたします。
当時の献立には、雪割茸、鮃の刺身、大魚小串、ツト豆腐、干鱈、鯛味噌漬、厚焼鶏卵、皮牛蒡、雪菜、長芋照煮などの料理が記録されていました。また、使用する器類として、古伊万里金襴手20人揃や、輪島塗皆朱20人揃など、お祝いらしいハレの器をご用意いたします。


お料理のイメージと、輪島塗皆朱膳椀20人揃(江戸時代のもの)です。(案内状の画像をお借りしました)

お食事会は、通常は非公開となっている、11代当主の主屋で開催されます。

今回も、びっくりするくらいおいしいお料理でした。器もすばらしかったです。^^


3月16日(木)- 4日め


軽井沢の宿をチェックアウトして、
上田市へ。
蕎麦処「元祖真田流手打ち蕎麦 佐助」で、
お昼ごはんをいただきました。


お店は、350年前に建てられた江戸時代の古民家を利用しています。飯山市から移築したそうで、ドッシリとした佇まいでした。野菜天ざるそばをいただきました。おいしかったです。^^

たまたま近くにあったので、真田氏歴史館に入り…、

さらに真田氏屋敷跡へ。MIYOは、お屋敷を囲む土塁の上を歩いているところです。笑


そして午後3時、楽しみにしていた、
湯田中温泉の「よろづや」にチェックイン。


玄関を入り、まずは、その美しさに圧倒されました。


予約していたのは、
「和室10畳+7畳/66㎡
 当館で最も広い二間の純和室」
というタイプ。
宿泊料金は、ふたり分で、
48000円(一泊二食消費税込み)。
我が家ではムリな価格でしたが、😅
よろづやのHPから会員登録をして、
2000円引き。
さらに、旅行支援で10000円を補助されたので、
実質36000円と考えることにしました。


この旅館の見どころは、登録有形文化財になっている、桃山風呂です。

夕食は、一品ずつを提供されるスタイル。どれも、感動的なおいしさでした。

最後にデザートが盛られていたプレートです。「38回めの結婚記念日おめでとうございます」と、チョコレートで書いてありました。^^


群馬県の積善館でも感じたのですが、
高級旅館の人々のおもてなしのすばらしさは、
感動ものですね。
宿泊料金は高いけど、
がんばって長生きして、いつかまた来たいなあ…
と思ってしまいました。


3月17日(金)- 5日め


旅の最終日です。
長野市の松代象山地下壕に行きました。


【松代象山地下壕】
第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画を進めました。この計画のもとに、昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9か月の間に建設された地下壕は、現在、松代大本営跡と呼ばれています。突貫工事により、全工程の約8割が完成しました。この建設には、当時の金額で1億円とも2億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。なお、労働者の動員については、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解があります。
この地下坑道跡は、舞鶴山を中心として、皆神山、象山に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10km余りに及ぶ、広大なものです。このうち、松代象山地下壕のみが、平成元年から一般公開されており、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡となっています。


一部のみの公開とはいうものの、内部は広く、かなり歩きました。

昨年訪れた、沖縄・旧海軍司令部壕を思い出しました。(2022年9月 沖縄県豊見城市)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 28 - 旧海軍司令部壕④(作戦室と幕僚室)(2022年9月2日/8日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


同じ頃に造られた地下壕ですが、
このふたつからは、
なにか違うものを感じました。
ひとつは、
「日本のために戦い、死んで行った方々が、
 最期まで守り続けた場所」。
そしてもうひとつは、
「少しでも長く戦争を続けるために、
 活路を求めて設けた場所」。
それはいったい、誰のためだったのでしょうか。


その答えを探しながら、
黙々と、地下壕の中を歩き続けました。


地下壕からの帰りに見つけたレストラン「心幸食(しんこきゅう)」で、少し遅めのお昼ごはんをいただきました。地元の人気店のようで、お客さんが絶えません。
松代象山店しんこきゅう(心幸食) 長野市/日本料理・懐石・会席 ネット予約可 | ヒトサラ

20種類以上の料理の中から、食べたいものを自分で選んで定食を作るスタイル。MIYOが選んだメイン料理は、「鶏もも肉のもろみそ漬けカツレツ」。絶品でした。大根のポタージュは、野菜くずを利用したブロスからこだわって作り、とろみはお米で出しているそうです。おいしかったです!^^

化学調味料を使わず、無添加の手作り料理を作っているのは、店主の藤村綾子さん。この道30年のスーパーウーマン。


お客さんがいなくなった店内で、
なぜか話がはずんでしまい、^^
貴重なお話をたくさん伺いました。
もともとは、病気のお子さんのために、
料理に工夫を凝らしたのが始まりだったそうです。


藤村さんにお会いして、
「この世で起こることには、
 無駄なことはひとつもない。
 すべてのことに、理由がある。」
という言葉を思い出しました。


病気のお子さんを育てながら、
苦労されてきたことでしょう。
そんなご経験が、現在へと積み上がり、
すばらしい笑顔になっておられる、
と感じました。


おいしいお料理と楽しいお話を、
ありがとうございました。^^


ランチのあとは、長野市松代町の、
けやき通りの界隈を歩きました。
このあたりには、
寺や武家屋敷がいくつも残っていて、
ただ歩くだけでもワクワクしてきます。


象山恵明禅寺。黄檗(おうばく)宗の寺院です。松代藩主真田幸道の正室豊姫の霊屋があります。佐久間象山の号は、この寺にちなんだとされています。

武家屋敷町だけあって、一般住宅ですらもこんな感じ。見事な高麗門にびっくりしました。笑

山寺常山邸です。武家屋敷ならではの静謐な庭が広がっていました。(国の登録記念物)


【山寺常山邸】
山寺常山は、佐久間象山、鎌原桐山とともに松代の三山と称えられました。山寺常山邸の見どころは、松代城下に残る門の中では最大である長屋門形式の「表門」、表門と渡り廊下でつながり近代和風建築の秀作である「書院」、そして神田川の水を引き入れている池(泉水)を湛えた「庭園」です。


秋になると、この窓からすばらしい景色が見られるそうです。

半田氏庭園です。庭園の中央には園池があり、その南側の築山には三尊(さんぞん)石が組まれています。一つの「泉水路」でつながる庭園として松代の造園文化の発展に寄与した意義深い事例だそうです。(文化庁登録記念物)

美しい薬医門の、旧樋口家住宅。江戸時代、真田藩士として目付役などを務めた上級武士の家でした。主屋、土蔵、長屋の3棟が長野市の文化財(建造物)に指定されています。

3月ということで、台所は、たくさんの吊るし雛で飾られていました。


スミマセン…。
写真が多すぎましたね。
多動夫と旅行すると、5日間で、
こんなにもたくさんの場所を
訪れてしまいます。😅
ダイジェストということで、
写真の数をかなり絞ったのですが、それでも、
こんなに長くなってしまいました。


長野県には何回も来ているのですが、
知らない土地や歴史的建造物が
まだまだあることを、今回は実感しました。


できるだけ歩き回ってみたものの、
旧樋口家住宅で時間切れとなりました。
宝の山のような武家屋敷町。
まだまだ、歩いてみたいところが
たくさんあり、心魅かれましたが、
「長野は近いから、また来ればいいよね。」
と話し合いながら、帰路につきました。


ようやく東京に戻ってきて、ほっとしています。
とはいうものの、早くも、
4月の旅が目前にせまっています。(アホ😅)
今度こそ、ホテルでのんびりと過ごすつもりです。
(たぶんムリ。😂😂)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 94 - 旧余市福原漁場⑦ 文書庫(2階と金満家番付表)/ コナカで爆買い(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場・文書庫で。(北海道余市郡余市町)


【お知らせ】
次の旅に出ます。
ブログは、少しお休みをいただきます。


11月13日(土)


旧余市福原漁場で、文書庫を見学しています。


2階部分には、たくさんの資料や写真が展示されていました。

写真がどれもおもしろくて、見入ってしまいました。^^

ガラスケースの中には、大隈重信から、この漁場の最後の経営者であった川内藤次郎に宛てた手紙が展示されていました。

このほかに、川内家の子孫が使った教科書、雑誌、おもちゃも展示してありました。

社団法人農山漁村文化協会発行・「頑張り源さん」。

大日本画劇株式会社発行・「お父さんの御褒美」。

羽子板、マンドリンやおもちゃの数々。

奥に階段がありました。多動夫がここから3階に上がろうとしたのですが、ここで行き止まり。3階は非公開となっていました。

階段の裏側に置かれていた、アメリカ製のラジオです。

こんなものが貼ってありました。大正時代中期の、「金満家番付表」です。個人情報もなにもあったもんじゃないですが。笑 金満家115名中、漁業家(ピンク色)は26名もいました。そのほとんどが日本海沿岸の漁業家であるため、ニシン漁場の網元であったと思われます。北海道のニシン漁業が、北海道の経済界で大きな役割を担っていたことがわかります。


夫が、番付表をおもしろがって撮りました。
このときのMIYOは、
たいして関心がなかったのですが、
あれから一年半が経過した今、
このブログを書くにあたり、
あらためて、この番付表を見てみました。


MIYOの知っている人がいるかな…と、
探してみたら、いました。笑
一番上の取締に、「相馬哲平」とあります。


【相馬哲平】
北海道屈指の豪商です。28歳で、単身、開港間もない函館に渡りました。その後、箱館戦争中も商いに徹し、数々の事業を興こしました。また、神仏を敬い、郷土報恩の精神で、函館に多額の公共投資をしました。その篤志家としての一面は、大火で焼け出された人々の復興支援として建てられた、旧相馬家住宅でも存分に発揮されています。(国指定重要文化財)


相馬哲平です。(画像をお借りしました)

函館市元町に佇む、和洋折衷の近代建築「旧相馬家住宅」は、初代 相馬哲平の旧私邸で、現在は国指定重要文化財として公開されています。このお邸は、「大火で焼け出された人々に仕事を作るために」と考えた相馬哲平が建てたものでした。(2022年4月18日 北海道函館市)


函館市元町に今も残る、旧相馬家住宅。
お金を無駄にせず、他者へ心を配る、
相馬哲平の生き方がしのばれる、
すばらしい邸宅でした。


このときの函館日記は、まだ書けていません。😅
いつか、ブログに残したいと思います。


1年半前、旧余市福原漁場で、
この番付表を見たときは、
関心もなかったし、なにもわかりませんでした。
でも、このときからの1年間で、
5回も、北海道を旅行してしまいました。(アホ)
北海道の各地を歩くうちに、旅をとおして、
様々なことを教えられてきたように思います。


以前は、興味がなかったはずの番付表でしたが、
今では、そこから先の世界に思いを馳せています。
わずか1年で、
自分の中にある世界が大きく変わっていることに、
今さらながら気づき、
それをうれしく思いました。^^


旅というものは、様々な体験を重ねるほどに、
自分の中に何かが積み上がっていくようです。
それは、
「見たものを受けとめる力」
とでも言うのでしょうか。
そして、
「もっと知りたい」
という気持ちが、さらに募るとき、
旅先で見たものは、さらに多くのことを
語りかけてくれるような気がしています。


(つづく)


(おまけのお話)


「紳士服のコナカ」さんから、ハガキがきました。


3月26日で閉店することになったため、
在庫一掃セールを行うそうです。
そして、このハガキを提示すると、
セール価格がさらに、
全品半額になるのだそうです。すごいです。


どうしてこんなハガキが来たのかと言うと、
思い当たるのは、ひとつだけです。


2014年3月、長男が高校の卒業式で着るためのスーツを、このお店で買いました。試着室の長男です。MIYOに「かっこいい~」と言われて、うれしそうにしています。^^(2014年3月9日)


ネクタイもシャツも、店長さんが、
ちょうどいいのを選んでくださって、
まとめてお買い上げ。
(ついでに、夫のもいくつかお買い上げ。笑)
このスーツ、本当に有効活用できました。


高校の卒業式だけでなく…、(2014年3月14日)

卒業記念で、皆さんが開いてくださった、長男のウクレレコンサートでも、着用しました。(2014年3月16日)


その後も、
成人式や、S園でのイベント出演などで、
何度も着用しています。


ということで、コナカは、
我が家にとっての大切な日のために、
お世話になったお店でしたが、
以来9年、申し訳ないことに、
このお店を利用する機会がありませんでした。
そしてコロナになり、やはり、
スーツを買う人が減ったから、なのでしょうか。
閉店になると聞き、残念な気持ちでした。


そこで、最後になってしまいましたが、
(うんとお安くなっているし、笑)
お店に行ってみることにしました。


この日買った品々です。生まれて初めての爆買いに、うれしそうな夫。🤣🤣

「安いからね。買っちゃえ、買っちゃえ。」…って言ってるうちに、こうなりました。爆

アウター、カジュアルパンツ3枚、シャツ5枚、ベルト1本…。

最後は、こんなものまで衝動買い。長女のコートはなんと2000円です。笑 内側にレースがついてて、かわいいんですよ。^^


全部で11点。
たぶん、80000円を超えるくらいでしょうか。
でも、閉店セール価格X半額割引で、
27500円ですよ。😂😂
怒涛の70%引きくらいかな…。
ペイペイで支払って、しっかり、
ペイペイポイントとdポイントもゲット。^^


後日、長女にコートを着せてみたら、サイズぴったりでした。よかった。^^(2023年3月4日)

このときのデニーズでの食事です。ライスは、大盛りをふたつ注文して、3人で分け合いました。

全部で4686円でしたが、アプリの10%割引クーポンを利用したので、4212円に。

お支払いは、商品券やクオカードを利用したので、差額の212円だけでした。あちこちでもらった金券は、使い忘れないよう、いつも持ち歩いています。笑


バーゲン、優待割引、ポイント、
アプリ割引、商品券、クオカード…。
あれこれ組み合わせて、とにかくお安く。笑
お金はないけど、割引券と商品券はある、
MIYO家です。🤣
さまざまなオトクを駆使しながら、
今日もがんばってます。^^

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 93 - 旧余市福原漁場⑥ 文書庫(1階から2階へ)/ 山口かほるさんの個展(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場・文書庫で。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場の、文書庫に来ました。
これまでに、
 網倉
 米・味噌倉
 納屋場
 雑倉
 石倉

を見てきました。
公開されているスポットの、
ようやく半分が終わったのですが、
あとまだ半分が残っています。😅
全スポットを書き終えるまでには、
まだまだ、何日もかかりそうですが、
(スミマセン)
がんばって書き続けようと思います。


文書庫です。


【文書庫(文書蔵)】
漁場経営についての書類、高価な衣服、調度品など、網元の重要な財産を保管するための蔵でした。北海道では一番蔵とも言います。土造りで、地上3階、地下1階、平面坪数は24.5坪です。3階建ての土蔵は、道内では他になく、全国的にも珍しいもので、当時「大宅(おおやけ)」と呼ばれた漁場経営者の権勢を物語っています。外壁は板に見えますが、実は漆喰(白壁)でできています。漆喰は雨や潮風に弱いので、その漆喰を保護するために、上から板をあてています。この板は着脱式になっているので、乾燥期には板をはずし、壁に風をあてたのかもしれません。

余市福原漁場の文書庫では、先祖伝来の大切な文書や家具什器、土地や漁業権・金銭貸借取引・漁師との契約書などの重要書類、そして高価な衣類や装飾品などが保管されていました。


文書庫です。

文書庫は、今見学したばかりの石倉の隣りにあります。

長い歴史を積み重ね、言いようのない雰囲気を醸し出しています。

右側面から見たところです。一見、木造のようなのですが、開け放した窓を見ると、内側は土蔵であることがよくわかります。


それでは、中に入ってみます。

外観は古い木造家屋のように見えましたが、玄関を入ると、内側に、漆喰の土蔵が現れます。

漆喰の土蔵部分には、4層にわたって、扉が取り付けられていました。


①両開き扉(防火扉)
一番外側にある、分厚い漆喰の非常に重い扉です。(カバー板が取り付けられているので木の扉に見えますが、実際は漆喰です。カバー板は、漆喰の扉を保護するために、あとから取り付けられたものです。)この扉は、
普段は開け放してあり、火事の時には閉じました。閉じると、合わせ目の「ひだ」がピタリと合うようにつくられています。それでも隙間があるときは、生味噌を塗りつけました。(昔は、扉のそばに、目つぶし用の生味噌を常備していました。)
②裏白戸
漆喰の防火戸です。
③大戸
ケヤキの一枚板で、からくり錠が付いています。
④中戸
くぐり戸のついた網戸。からくり錠が付いています。


扉の向こう側、文書庫の内部(1階部分)です。壁に沿って、かつて網元の家で使用されていたであろう、たくさんの食器が展示されていました。

階段を上がって、2階に行きます。

2階です。部屋いっぱいに、たくさんの資料が展示されていました。まずは、床の中央部にある、四角い仕切りをご覧ください。

床の格子戸です。2階や3階へ大きな荷物や重い物を引き上げるときには、この格子戸が水平に開きました。重い物を引き上げるときは危険が伴うので、2階と3階の穴を重ねることなく、それぞれの位置をずらして作ってあります。そのため、1階から3階へ、重い物を一気に引き上げることができません。作業者は、2階でいったん荷物を降ろして、呼吸を整えてから、さらに3階へと引き上げました。これもまた、昔の人の知恵でした。

かつて使用されていた、火鉢や箪笥です。

この漁場の最後の経営者であった、川内家の半纏です。


【川内家の半纏】
福原漁場最後の経営者であった川内藤次郎は、明治33年には、約5.4ヘクタールの農地を所有しており、不漁の年に備えて果樹園や水田も営むなど、堅実な経営をしていました。昭和に入って凶漁が続くと、ニシン漁の将来を予見して、昭和22年、漁業から完全に手を引きました。その際、粕干場などは果樹園に切り替えるなどして、農業に転向しています。その頃に雇われ人が着用していたのが、この半纏です。


川内家の暖簾です。

「現場を見回る親方」と書いてある写真がありました。最後の経営者・川内藤次郎であると思われます。


ニシンで稼いだ金を使い果たし、
水泡に帰してしまう網元が多い中、
彼は書物等にお金をかけ、
不漁の時期には農業への方向転換を行うなど、
堅実な経営者であったと伝えられています。


(つづく)


(お知らせ)


山口かほるさんから、個展の案内状をいただきました。国立市のギャラリーで、4月6日から11日まで開催されます(無料)。


【山口 かほる】
 1950年5月生まれ。
生後3ヶ月で脳性マヒと診断される。
10歳の時に兄嫁から絵を習い、口で描くことを始めた。
14歳で入所した施設では、4時に起き、両手が使えないから、時間をかけて朝食を自分で食べ、学校へ行った。やがて宗教に出会い、心の救いと友人を得、忍耐を学んだ。
絵画は、16年間研究所に通い、学習を重ねた。初めは口で描いたが、長年酷使した体のためにとの助言に沿い、現在は足で描いている。個展の開催多数。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 92 - 旧余市福原漁場⑤ 石倉(ニシンつぶしと漁の終焉)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場で。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場・石倉で、
展示を見学しています。


次は、この漁場で行われていた、
「ニシンつぶし」に関する展示です。


【ニシンつぶし】
身欠ニシンを製造するために、ニシンの腹を裂いて、内臓、数の子、白子、エラを除去する作業のことを言います。水揚げされたニシンは、もっこ背負いが運び、まずは廊下に貯蔵されます。そのまま数日経過すると、カズノコが固まり、ニシンは柔らかくなるので、作業が容易になります。ニシンつぶしの作業は、早朝から始められました。主な働き手は地元の人々(主に女性)で、 出来高による賃金払いを受けたので、「出面取り」と呼ばれました。
廊下:ニシン漁特有の付属施設で、沖揚げしたニシンを加工するまで一時保管しておく建物です。ニシンの出し入れに便利なように、壁を取り外すことができます。ニシン漁の時期が終わると、船を入れておく倉としても使われました。


ニシンつぶしの概要です。(余市水産博物館の画像をお借りしました)

大きな洗い桶がありました。この作業に使ったと思われます。

作業は、ふたり一組になって行われました。ニシンをつぶす作業に徹する「つぶし方」と補助役の「つなぎ方」です。

つぶし方は、こんな台座に座って作業をしました。白子(精嚢)やカズノコ(卵巣)は各々の容器に入れ、エラから口にかけての部分は、藁で結んで天日で干しました。

つぶしたニシンは、補助役の「つなぎ方」がワラに通してつなぎます。そして、天秤棒のかぎにひっかけて、干場に運びました。前後に一連ずつかけても40尾以上になるので、けっこうな重さだったと思います。


この時にニシンを干した場所が、
さきほど見た、「納屋場」だったのです。


納屋場内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作った場所です。加工した製品は、北前船で日本各地へ出荷されました。

この干場はほんの一部。実際にはもっとたくさんあったはずで、その干場一面にニシンを吊り下げて干していた様子を想像すると、ワクワクしてきます。^^
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 90 - 旧余市福原漁場③ 石倉(北前船)(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


このときの、私たちの会話です。
み「この木枠のある場所で、一面に、
  ニシンを吊るして干したんだよね!」
夫「そうみたいだね。」
み「きっと、すごい臭いだったんだろうねぇ…。
  もしかして、ハエだらけだった?」
夫「…。😓😓」


納屋場(干場)で数日干したあと、生乾きの状態になると、「さばさきり」という小刀で切り分け、さらに納屋で2週間ほど乾燥させました。これが「身欠ニシン」です。乾物で保存性がよいので、特に山間地のタンパク源として重用され、全国にニシン食文化が広がりました。京都の「にしんそば」、福島県会津地方の「にしん山椒(さんしょう)漬け」など、各地の郷土食にもなりました。(下の写真は、旧花田家番屋で撮ったものです。)
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 16 - 旧花田家番屋①(ニシン回廊)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

「ニシンつぶし」の後、除去した部分を煮た大釜です。この作業から、〆粕を作りました。

ヨイチ場所での、ニシン粕焚きのようすです。

煮上がったニシンは、タモ網ですくい取り、シメ胴に移しました。シメ胴は、ニシンの油を搾るための装置です。この中にニシンを入れて、シメ具にかけて搾りました。(下の写真は、旧青山家漁家住宅で撮ったものです。)
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 47 - 北海道開拓の村⑲(旧青山家漁家住宅②文庫倉、石倉、板倉、米倉)/ Coke Onペイと今月のネイル(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

シメ胴は木製で、古くは角型の枠組みでしたが、その後改良されて、鉄製・円筒形のものになりました。

作業に使用した道具類です。


【無駄のないニシン加工】
「ニシン釜」で煮詰めた鰊は、「角胴」「丸胴」に詰められ、圧力をかけて搾ります。流れ出す液体部分の上澄みからは、「ニシン油」がとられ、一斗缶につめて出荷されました。
「角胴」「丸胴」の中に残ったニシンの「粕」は、「粕切包丁」で切られ、「粕くだき」で砕かれます。くだかれた「粕」は、むしろの上で天日干しにしました。乾いた「粕」は、俵につめて「〆粕(締粕)」として、全国へ出荷されました。
「〆粕」は、効果の高い肥料として、江戸時代後期から全国に流通しました。はじめは、綿花やみかん、菜種、藍、紅花などの商品作物に使われましたが、次第に、稲作や畑作にも広く使われるようになりました。その後、過リン酸石灰などの化成肥料が使われるようになるまで、「〆粕」は、日本の代表的な肥料として使われ続けました。


積み上げられた〆粕(鰊粕)の俵です。一俵の重さは26貫(97.5㎏)。(下の写真は、増毛・千石蔵で撮ったものです。)
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 13 - 千石蔵①(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


【ニシン漁の歴史】
ニシン漁の最も古い記録は15世紀半ばで、松前や江差などの松前藩領内で行われていました。そのニシン漁が盛んになり始めるのは17世紀後半以降です。松前・江差地方での漁獲量が少なくなると、18世紀中ごろには、商人によって蝦夷地の漁場が開発され、徐々に北上していきました。蝦夷地では、元々アイヌがニシンを獲り、和人との交易の品としていましたが、和人自らがニシンを獲るようになると、アイヌはその労働力に組み込まれて行きました。
やがて、漁場が拡大するのに伴って漁民が増加していきました。大飢饉により、東北地方から多くの和人が出稼ぎにきたことも、漁民増加に拍車をかけました。その後幕末にかけて、ニシンの漁獲量は大幅に増え、主に魚肥に加工され、本州での田畑の肥料として重宝されました。
明治時代になっても、ニシンを中心とした漁業は北海道の主な産業であり、拡大を続けました。この頃に、大規模な番屋が多数建築されており、その一部は、北海道内の各地に今も残っています。
繁栄を極めたニシン漁でしたが、やがて終焉が訪れます。ニシンの来遊が、南から順に途絶えていきました。明治30年代には、秋田、青森、昭和30年には留萌地方でも激減、昭和32年には、日本海における春ニシン漁は完全に幕を下ろすことになりました。


岸に打ち上げられたニシンの山です(大正時代)。「春告魚(はるつげうお)」とも呼ばれるニシンが、産卵のために大群で押し寄せる現象を「群来(くき)」と言いました。大群のニシンによる産卵・放精で、海の色は乳白色になったそうです。余市町におけるニシンの漁獲量は、大正時代が最も多く、1919年(大正9年)には45000トンで、年平均で37000トンを数えました。

以下2枚は、余市町における、最後の群来(くき)の写真です(昭和29年)。このときの春ニシンの群来は7年振りで、3月30日から始まり、漁獲高は250石(45トン)でした。

しかし、この時に獲れたのは大型のニシンばかりで、若いニシンはほとんどいませんでした。それは、翌年以降が不漁であるだろうことを予測させるものでした。


ニシン漁は、
北海道に莫大な富をもたらしましたが、
これ以降、急速に衰退していきます。


海の色が乳白色に変わるほどに押し寄せた、
大漁のニシン。
それは、北海道の豊かな自然の象徴でした。
それが終焉を迎えた最大の原因は、
約100年間続けられた、
人間による乱獲であったと言われています。


ニシン漁が盛んだったころ、群来が始まると、
沖合より沿岸に向かって、
海の色が白く変化しながら、
ニシンの大群が押し寄せました。
余市のお年寄りの方々は、現在でも、
その光景を記憶しているそうです。



あらためて、石倉を眺めました。
ニシン漁で余市が繁栄していた頃、
この石倉には、身欠きニシンやニシン粕などが
大量に保管されていました。
ここで多くの人々が忙しくたち働き、
活気にあふれていたことでしょう。


今はひっそりと静まり返り、
私たちふたりだけが、立ちつくしています。
けれど石倉の中には、あふれんばかりに、
往時の断片が詰まっていました。
それらは、今も私たちに、
様々な情景を語り続けてくれています。


次回は、土倉(文書庫)を訪ねます。


(つづく)