MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 101 - 旧下ヨイチ運上家③(上手玄関、裏座敷、表座敷、縁側、そして2階)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧下ヨイチ運上家・上手座敷で。ここにはかつて、「遠山の金さん」のお父さんが滞在していました。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧下ヨイチ運上家に来ています。
次は、上手座敷を歩きます。


【上手座敷】
運上やの建設面積約540㎡に及びましたが、そのおよそ半分を占めていたのが上手座敷です。松前藩士や勤番下役の詰所(役人や勤番下役の勤務場所)という位置づけでしたが、江戸幕府その他の藩士たちの止宿所としても使用されました。

エリア内は、身分によってそれぞれ居住区が分けられており、中廊下を挟んで、武士たち専用の部屋がありました。


中廊下を少し歩くと、右側に上手玄関が見えました。

上手玄関です。


【上手玄関】
松前藩士や江戸幕府の役人等、武士たちが出入りした玄関です。三方ひさし付き屋根玄関で、一般の人は出入りできませんでした。


あらためて運上家の外観を見てみると、玄関がふたつあることがわかります。左側が、私たちが入った玄関で、この中には船主や漁夫のためのエリア(板の間)がありました。それに対して、右側の玄関の内側は武士のためのエリアで、すべて畳敷きになっていました。


ひとつ屋根の下ではありますが、
藩士たちは、上手玄関から出入りし、
上手座敷だけで過ごすので、
通常、漁夫たちや身分の低い人々とは
顔を合わせることもなかったと思われます。


障子や襖も豪華絢爛です。奥の金の襖は江戸時代のもので、波と千鳥が描かれています。


さて、上手座敷には、
中廊下を挟んで4つの部屋がありました。
玄関側の表一、表二、
そして庭に面した、裏一、裏二です。


まずは、いちばん奥の部屋である裏一から見て行きます。

裏一では、西蝦夷地巡検視・目付 遠山金四郎景晋(かげくに)が滞在していたときのようすを再現しています。


【遠山金四郎景晋】
幕府より西蝦夷地巡見を命じられ、1806年(文化3年)、旧暦4月15日より13日間、この運上家に滞在しました。当地では、ヨイチ・ユワナイ間の山道切り開きの策定と、北方警備の調査などを行いました。
「遠山の金さん」の父親として知られていますが、江戸幕府の対外政策の第一戦を担って東西奔走した人物でした。幕府の蝦夷地直轄、ロシア使節レザノフ長崎来航、朝鮮通信使易地聘礼などの重要案件に携わり、現地に派遣されています。その出張は、1799年から1811年までの12年間に、蝦夷地3回、長崎1回、対馬2回にのぼっています。

1805年から1806年にかけて西蝦夷地から宗谷まで見聞したあとは、長崎奉行となり、江戸に戻ってからは勘定奉行を勤めました。文政年間の能吏として知られ、中川忠英、石川忠房と共に三傑と呼ばれました。


中廊下を隔てて奥に見えている部屋は、表一です。

つづいて裏二です。この部屋は勤番詰所で、知行主や藩士、勤番下役が役所的な業務を行う部屋でした。人形は、「ヨイチ場所詰 勤番役人」を再現しています。

裏一と裏二に沿って、縁側が設けられています。この縁側の手前に、トイレと風呂がありました。

縁側から見える庭の風景です。

次は、中廊下を挟んで反対側にある、表一です。幕府勘定吟味役・村垣左太夫定行が滞在していたときのようすを再現しています。


【村垣左太夫定行】
1787年(天明7年)より9度に渡り、「遠国御用」を務めました。幕府より西蝦夷地巡見を命じられ、1805年(文化2年)から翌年にかけて、目付遠山金四郎景晋と共に松前・蝦夷地を視察し、1806年の旧暦3月23日に、ヨイチに到着しました。西蝦夷地を収公するために、この運上家に滞在したあと、石狩方面へ出発しています。視察後、蝦夷地の記録を「西蝦夷日記」にまとめて幕府に提出したことから、1807年(文化4年)、松前奉行に任命されました。その後は、老中水野忠成の元で幕府財政に携わり、諸国河川修復、金銀改鋳、江戸町会所貸付金管掌、諸国総石高検査などを担当しました。


最後の表二には、腰元が控えていました。腰元とは、身分の高い人に仕える侍女ですが、当時ここには女性は入れなかったそうなので、この人形は演出なのかもしれません。

これで、一階部分のすべての部屋を見ました。最後に、下勝手と上勝手の間にある階段を上がって、二階を見てみます。

階段です。上台所の奥、上勝手という場所にあります。

階段を上がったところです。

2階には、このような部屋が8つあり、「寝部屋」と書いてありました。


【運上家・2階部分】
2階には板の間が8部屋あり、漁師や旅人が泊ったとされています。この2階部分には囲炉裏の熱が上がってくるので、意外と温かく過ごせていたようです。この8部屋は、運上家の左半分である板の間の上にのみ設けられており、右半分の上手座敷エリアには行けないようになっていました。これは、上手座敷の上の部屋から、機密情報を盗み聞きされることがないように、という配慮からだったようです。


これで、すべての場所の見学を終えました。
最後にあらためて、
旧下ヨイチ運上家の概要を記しておきます。


【旧下ヨイチ運上家】
かつて松前藩は、米作が成立しない土地柄ゆえに無高とされており、アイヌ人との交易に経済的基盤を依存していました。その実質的な担い手だったのが、「場所請負人」と認められた商人達でした。彼らは交易のみならず、漁場経営、駅逓、アイヌ人の撫育などの業務をも同時に行っていました。運上家は、彼らのような商人達が各々の請負場所に建てた活動拠点で、往時は松前藩領内に85ヶ所もあったとされています。が、廃藩置県後に破却が相次ぎ、唯一現存しているのが、旧下ヨイチ運上家です。明治以降に開拓が進んだ北海道にとって、藩政期の歴史を伝える建物は、きわめて貴重な存在で、1971年、国の重要文化財に指定されました。


かつてこのあたりは海沿いだったそうですが、現在は、海岸が少し遠ざかっています。

運上家から見た景色です。ずいぶん埋め立てられています。


さて。
ここで、すでに1時を過ぎていました。
夫が予約している、
ニッカウヰスキー北海道工場 余市蒸溜所
の見学は、2時半から始まります。
かなり時間がおしていましたが、
多動夫、あきらめません。


「次の場所にいくよ!」と、うれしそうです。😂😂

旧余市福原漁場で買った共通入場券(880円)に含まれていた、「よいち水産博物館」に行こうというもくろみです。爆


旧余市福原漁場と旧下ヨイチ運上家で、
入場料の合計は600円。
あと一か所に行けば、モトがとれるのです。
ってことで、
「なんとしても、
 よいち水産博物館に行かなければ。」
というビンボウ根性が出てしまいました。
(アホです。笑)


またまた今回も、ドタバタ旅行ですね…。😅


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 100 - 旧下ヨイチ運上家②(船主居間、番人様方居間、帳場、酒部屋、便所、神棚、そしてアイヌ絵)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧下ヨイチ運上家で。写真を撮るのに忙しく、なかなか内部に入れませんでした。笑(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧下ヨイチ運上家(うんじょうや)に来ています。



「下」という字が不思議だったのですが、
当時の余市場所は、
上ヨイチ(余市)と下ヨイチ(余市)とに
区分されていて、
「運上家は下ヨイチにあった」という、
ただそれだけのことだったようです。^^


それでは、
旧下ヨイチ運上家の内部をさらに見ていきます。


入口を入ってすぐのところには、「船主居間」がありました。

船主居間です。

中で、船主がお酒を飲んでいました。

この部屋の障子を開けると、船主が座っている位置から、帳場が見えます。船主は、居間でお酒を飲んでくつろいでいるときでも、常に、番人たちや帳場のようすに目配りをしていたのかもしれません。

帳場の手前にある板の間は、「番人様方居間」でした。帳場と番人様方居間の一部は、上台所よりも床が高くなっています。床の高さで、当時の身分関係がうかがえます。^^

帳場の中です。手前でお茶を入れているのは、丁稚の小僧さんですね。^^


【帳場】
支配人、帳役、アイヌの通詞、番人、稼ぎ方を置く場所でした。交易、漁業取扱いなどの業務を行い、余市場所の漁獲高、金銭の取扱いなどの事務処理を行いました。


帳場は板の間ではなく、畳が敷かれています。今で言うと、経理部や総務部のようなところだったのでしょうか。^^

次は、上台所の奥にある、「酒部屋」です。


【石室付酒部屋】
酒は、お祝いの時だけでなく、網おろし、切上げ、交易などの業務には欠かせないもので、灘、若狭、能登、新潟などから北前船(弁財船)で運び込まれました。たいへん貴重なものだったので、酒のための部屋を特別に設けてありました。


*陶磁器類は、余市町・金田小大郎氏から寄贈されたものです。

器は、下台所にもたくさんありました。

美しいお猪口は、明治時代の九谷でした。

最後に、土間の奥にある便所に行きました。

こんな感じです。😅 やはり、漁夫が使用するトイレは、木製なんですね。


これで、1階の左半分を見終わりました。
次は右半分の上手座敷を歩きます。
ここには、
役所的な業務を行う勤番詰所がありました。
武士が過ごすエリアなので、
すべて畳敷きになっています。


勤番詰所エリアの入口です。上部には、巨大な神棚が設けられていて、まるで小さな神社のようです。床には、賽銭箱まで置かれています。


上の写真で、床の部分にもご注目ください。
これまで歩いてきた板の間(上台所)よりも、
床が2段にわたって持ち上げられています。
身分の差がありすぎて(?)、
1段上げるだけでは、足りなかったみたいです。笑


その神棚の左側には、アイヌ絵の幟旗(のぼりばた)が天井から吊るされていました。

これは、別の部屋にあったアイヌ絵の幟旗です。


【アイヌ絵(武者のぼり下絵)】
江戸末期、松前藩の絵師・早坂文嶺の作です。義経と蝦夷の娘が結ばれ、男子が誕生したのを祝い、若者が弓を引こうとしたのですが、義経が片手で押さえただけで弓が引けなくなりました。それくらいに、義経は力が強かった、というエピソードを描いたものだと言われています。
端午の節句の際、子どもの成長を願って幟旗(のぼりばた)を立てる習慣は、江戸時代に武家の間で行われていたもので、松前にも同じ習慣がありました。
「義経蝦夷渡伝説」(義経は平泉で死なずに、蝦夷地に渡ってその地を征服し大王と仰がれ、後に神としてまつられた)という物語は、江戸時代から伝えられ、義経の死にまつわる伝説のうち、最も流布したものとされています。この絵も、その伝説にまつわるものと思われます。

ただし、この伝説には、もうひとつの側面があります。江戸時代、幕府によるアイヌ民族の同化主義政策が開始された際、この「義経蝦夷渡伝説」がアイヌに強制され、日本に帰属させるための精神的な手段となったことも、心にとめておきたい点です。


左:片手で弓を押さえる義経。
右:義経とのあいだに生まれた子どもを背負う、アイヌの女性。

それでは、仏壇の下をくぐって、上手座敷に入ります。


次回は、上手座敷の中を歩きます。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 99 - 「たけや」のお昼ごはんと、旧下ヨイチ運上家①(土間、下台所、上台所)/ 槫板葺石置屋根(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧下ヨイチ運上家で。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場を出発したときは、
お昼近くになっていました。



さて、お昼ごはんです。
食事できるところを探して、夫の運転で、
福原漁場のあたりをウロウロしたのですが、
コロナ禍で、ほとんどのお店が閉まっていました。


街の中心に近いところまで行って、ようやく見つけたお店、「たけや」です。

多動夫は、「早く食って次の場所に行こう。」と言って、さっさとランチ寿司(税込1320円)に決定。いつもはメニューがなかなか決められない人なんですが、このときは、余市観光で頭がいっぱいだったようです。笑

MIYOは、余市産の平目を使用した「ひらめフライ定食」に心魅かれて、すごーく迷いましたが…、

結局は、上生ちらしに決定(税込2420円)。

どーーーん。おいしかったです!!😂


食後は少しゆっくりしたかったけれど、
「時間がなくなるよ。早く早く。」
と言う夫にせかされて、お店を出ました。
次に向かったのは、
旧下ヨイチ運上家(きゅうしもよいちうんじょうや)
です。
旧福原漁場からは、
歩いて15分ほどのところにあります。


旧下ヨイチ運上家です。まずは屋根をご覧ください。槫板葺石置屋根(くれいたぶきいしおきやね)です。


【旧下ヨイチ運上家】
江戸時代に造られた施設です。当時松前藩は、幕府からアイヌ民族との交易を許されていましたが、その交易を請け負った商人が経営の拠点とした建物を、運上家といいました。かつては蝦夷地の各地にありましたが、現在も残っているのは旧下ヨイチ運上家のみです。
旧下ヨイチ運上家は、1853年(嘉永6年)に、ヨイチ場所の請負商人である、竹屋林長左衛門によって建てられました。切妻造平入の長大な槫板葺石置屋根、格子窓、紙障子戸は北陸の漁家建築と同じ系統のデザインです。内部の空間は広く、板の間から見上げた柱や梁は太く、その多くの部材に、当時のものをそのまま使用しています。封建体制の身分制度を反映し、床の間付きの上座敷や勤番侍の座敷、入り口近くには使用人用の板張りの部屋、上・下台所があります。廊下の両側に配置される座敷では、場所請負人によって派遣された支配人や松前藩士等の風俗人形が展示されています。
明治以後、多くの運上家は、番屋や倉庫に転用されました。そしてニシン漁が不振になると、番屋の機能をも失い、朽ちるに任せるような状態でした。下ヨイチ運上家も同じような経路をたどっており、一時は借家として、数家族が生活していました。が、昭和40年頃、林家から余市町に寄付されたことにより、1979年(昭和54年)に、竹屋林長左衛門が1853年に改築した折の図面にしたがって、今の姿に復元されました。
建物は、松前藩の蝦夷地支配の遺構として、1971年(昭和46年)、重要文化財に指定されました。また、一帯の敷地が、1973年(昭和48年)、「生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡」であるとして、国の史跡に指定されました。
*運上家を「ニシンゴテン」として紹介している場合がありますが、運上家は実用第一で建設された施設でした。いわゆる、「親方が贅を尽くした鰊御殿」とは異なるものです。


左側から見た、旧下ヨイチ運上家です。大きな建物です。間口40メートル、奥行16メートル、建築面積534平方メートル、使用した木材量は213立方メートルにおよびます。

そしてこれは右側から見た運上家。夫、うれしくって、建物の周囲をウロウロしながら、写真を撮りまくっています。🤣🤣

そう言うMIYOも、やっぱり写真撮ってます。笑

もうね、そのまま中に入るのがもったいないくらい、雰囲気ありすぎなんですよ…。^^

あまりにも長い間、建物の前にいたものだから、とうとう中から職員の方が出てこられました。「どうぞ、中にお入りください。」と…。🤣🤣

ということで、ようやく中に入ります。^^

運上家の間取図です。建物は2階建てです。

入口を入ると、まずは広い土間があります。

写真の右奥は台所なので、たくさんの台所用品が並んでいます。

旅人は、ここで草鞋を脱ぎました。

私たちも靴を脱ぎ、板の間に上がりました。

広い板の間です。ここは、「下台所」で、出稼ぎの漁師たちが過ごす場所でした。ここの左側と奥の窓際は台所になっていて、番屋でよく見かける「漁夫溜まり」に似ています。

囲炉裏の上部にある火棚には、草鞋や干し魚が吊るされています。

さらに上を見ると、ロフトがあります。物置になっていますが、真ん中に見えているのは、ニシンを運んだ「もっこ」ですね。^^

「下台所」の右側に、もうひとつの囲炉裏があります。ここは「上台所」と呼ばれました。「上台所」の囲炉裏には、大船頭が座っていました。

大船頭が座る「上台所」は、出稼ぎの漁師が過ごす「下台所」に比べて、床が少し高めになっています。運上家では、それぞれの床に段差が設けられていて、身分の高さに合わせて、各人のいる場所が決まっていました。


「身分によって床の高さが変えられていた」
というと、
いかにも江戸時代らしい気がします。
でも、明治以降も、
このような考えは続いていたようです。


群馬県・積善館の歴史資料館に今も残されている「上段の間」。身分の高い人が宿泊するための部屋だったので、他の部屋よりも床が高くなっています。(画像をお借りしました)

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 21 - 積善館③ 本館・歴史資料館①(2023年1月17日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


いちいち床の高さを変えたりしたら、
その分、手間もお金をかかるだろうに。
床の高さが同じだと、眠れないのか?
と突っ込みたくなるのですが、
床の高さだけの問題ではなく、昔はこうして、
身分に応じてなにかと差をつけないと、
気がすまなかったみたいですね…。


少なくとも、
「身分に応じて、
 家の中に段差をつけるのがあたりまえ」
という考えを、
誰もが当然のことと思っていたわけで、
それが封建社会ということだったのでしょう。


身分制度はともかくとして、
今はバリアフリーということで、
建物の中に、とにかく段差のないことが
推奨されるようになりました。
ありがたいことです。^^
こんな世の中になるとは、
当時の人々には想像もつかなかったでしょうが。


手前から、土間、下台所、上台所、その奥に続く座敷を見通した写真です。奥に行くほど、床がせり上がっているのがわかります。

ここまで、土間、下台所、上台所を見てきました。


スミマセン…。
また、長い連載になりそうです。😅


(つづく)


(おまけのお話)


旧下ヨイチ運上家の槫板葺石置屋根
以前にもどこかで見たと思い、
過去のブログを調べてみたら、ありました。
北海道開拓の村の、旧岩間家農家住宅です。


屋根を葺いている柾(まさ)をおさえるために、屋根の上にたくさんの石が置いてありました。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 29 - 北海道開拓の村②(旧岩間家農家住宅、旧河西家米倉、旧山田家養蚕板倉、旧樋口家農家住宅)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


【旧岩間家農家住宅】
岩間家は畑作農家でした。宮城県の士族移民団の一員として、1871年(明治4年)に入植しました。この家屋は、1886年(明治15年)に、同郷である宮城県の大工によって建てられたもので、仙台地方の建築様式を多くとりいれています。
屋根の上にはたくさんの石がのっていますが、それは、屋根を葺いている柾(まさ)をおさえるためでした。台所は、太い梁を何重にも組んで、釘を使わないで作り上げています。


旧下ヨイチ運上家の槫板葺石置屋根とは、
屋根を薄い板で葺いてあるため、
その板が風で飛ばないようにと、
重石を置いてある屋根のことです。
これは北陸の建築様式とありましたが、
かつては宮城県でも、
屋根に重石が見られたようです。
その後、防火対策として、板葺きではなく、
瓦葺き屋根が推奨されるようになります。
瓦葺きの屋根には重石を置く必要がないため、
石置屋根は、しだいに見られなくなっていきました。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 98 - 旧余市福原漁場⑩ 便所、物置、そしてトロッコへ(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場で。トロッコを前に立ちつくしました。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場に来ています。
主屋の見学を終えて、
正面玄関の反対側にある裏口から、外に出ました。


主屋・裏側の全景です。出口を境にして、左側が親方と家族の居住部分で、右側が漁夫溜まりです。

主屋の左側には、先ほど見学した文書庫(3階建ての蔵)が見えます。ふたつ並ぶといい雰囲気を醸し出していて、しばし、ここから動けませんでした。

主屋の裏側で少し佇んだあと、再び、次のスポットへと歩きだしました。

次は、主屋のすぐ隣りにある、便所です。

小さな小屋のようなものがふたつ並んでいますが、便所は左側で、右にあるのは物置です。

便所です。出入り口は左側と右側の2か所にありました。内部は、左側が漁夫用で、右側は親方家族用でした。

平面積は6坪。地下には、建坪と同じ6坪の大きな便槽があります。台所や風呂場の捨水も便槽に流し入れて、肥やしとして畑に使用しました。

夫が引き戸を触ってみると、開きました。中を見ることができるんですね。^^

右側は、親方家族用のエリアでした。右端の引き戸を開けると、いきなり、便器が目に入りました。

お食事中の方、すみません。でも、この時代の便器って、ひとつひとつが違っていて、私たちは、見るのが大好きなんです。笑

手前の便器のような柄は、初めて見ました。

ハマナスの花のようです。そして鳥はノビタキでしょうか。北海道らしい図柄です。^^

ハマナスの花です。(画像をお借りしました)

昨年訪れた、北海道・積丹半島で。神威岬では、ハマナスの花が咲き乱れていました。(2022年6月24日 北海道積丹郡積丹町)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 62 - ウポポイ⑨(チキサニ広場とイカラウシ工房)/ 積丹半島のバフンウニ丼 / コンビニで5%オフになるカード3(2021年11月7日/5日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


もうすぐ、積丹半島で、
ハマナスが咲き乱れる季節がやってきます。
ウニ漁があるのは、6月から8月までの、
わずかな期間です。
また、あのウニ丼が食べたくなりました。^^


また脱線しましたが😅、話を戻して、
次は左側の漁夫用エリアを見てみます。


漁夫用に設けられた便所です。左端に小便器、そしてその隣りに大便器がありますが、陶製ではなく、木製でした。こんなところにも、明確な身分の差がありました。


初めて、明治・大正時代の便器を見て、
その美しさに驚いたのは、2年前。
長野県・田中本家博物館でのことでした。


田中本家博物館に展示されていた便器です。有田焼で、大輪の牡丹をあしらった絵柄など、旧花田家番屋のものととてもよく似ています。(2021年3月21日 長野県須坂市)
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 20 - 田中本家博物館 水車土蔵(2021年3月27日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

そしてこちらは、旧花田家番屋で見た便器です。こちらも有田焼の便器で、絵柄は白地に藍色の花模様です。(2022年6月19日 北海道留萌郡小平町)
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 20 - 旧花田家番屋⑤(はなれと便所)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

これは男性用です。ふたつの便器は同じようなテイストの絵柄で作られています。お揃いだったんですね。^^


この当時、お金持ちの家では、
便器を有田焼で作るのが、
ステイタスシンボルだったのでしょうか。
この頃の家屋を訪ねると、
美しい便器が置いてあることは、
そう珍しいことではありません。


にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)のトイレです。ほおずきの絵柄です。青山別邸は、ニシン漁で財を成した青山家の別荘でした。(2021年6月28日 北海道小樽市)
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 41 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)③/テレカ寄付のお礼とお願い(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

中心に樹が描かれる構図は、旧余市福原漁場や旧花田家番屋の便器と同じです。

コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 41 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)③/テレカ寄付のお礼とお願い(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


便器も100年たつと、美術工芸品ですね。^^
はじめの頃は、凝った絵柄に驚きましたが、
最近は、古い家屋を訪ねたときに、
便器を見るのが楽しみになっています。😄


最後のスポットは、便所の隣りにある、物置です。

物置です。薪小屋として使われていました。その奥では、足場が組まれていて工事をしていました。なにか、新しい物が復元されるのかもしれません。

再び、主屋の表側に来ました。道路に面して、主屋と文書庫が並ぶこの場所には、もうひとつの見どころがあります。

文書庫と石倉の前に伸びる黒い線がわかりますでしょうか…。

トロッコです。

現在は埋め立てられていますが、かつてここは、海岸沿いにありました。

ニシンを満載した船から、モッコ背負いによって陸揚げされたニシンは、このトロッコで漁場の奥へと運ばれました。

トロッコと線路の一部が、今も残されています。その線路は、文書庫、石倉の裏側を通ったところで終わっていますが、かつてはさらに奥へと続いていたはずです。


ニシンを運んだトロッコが今も残る漁場。
それは、私が旧余市福原漁場に魅かれた、
いちばんの理由でした。
そのトロッコを見たい、と思っただけで、
ワクワクしました。


このトロッコのまわりには、
今はなにもありません。
けれど、かつてここでは、
多くの人が忙しく立ち働き、
活気にあふれていたことでしょう。


当時の人々の熱気を思いながら、
トロッコのそばで、立ちつくしました。
100年以上もたって、今、
この漁場を訪れることができる幸運を思いました。


「とうとうここまで来られたんだな…。」


目の前には、100年前に栄えていた漁場の、
そのままの風景が広がっていました。
胸が震えました。



旧余市福原漁場の旅日記は、これで終わります。
最後にもう一度、福原漁場の歴史を。


【旧余市福原漁場】
1884年(明治17年)ごろに、初代福原才七が土地等の購入を実施し、事業の拡大を図ったのが、本漁場の始まりとなりました。1887年頃には、文書庫・米味噌蔵・石蔵・雑倉が建設され、主屋は1921年ごろに建設されたと言われています。その後、不漁により、1903年(明治36年)、漁場の所有権は大村由太郎、小黒浜蔵に移り、1912年(大正元年)には、ニシン漁家を営む川内家に売却されました。その後、1947年(昭和22年)の漁業撤退までの間、漁場として活用され続けました。
川内家は、1985年(昭和60年)まで、70年以上にわってこの主屋に住み、漁業と農業を営みました。主屋、文書庫、米・味噌倉、網倉に展示されているものには、川内家から寄贈された品が多数含まれています。
旧余市福原漁場の見所は、「ニシン漁に関する一連の施設が完全に残されていること」に尽きます。建物の再現・保存を行っている番屋は他にもありますが、一連の施設をまとめて保存し続けている漁場は、ここしかありません。ここまで完全な姿で保存してくださっている余市の人々の尽力に、頭が下がりました。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 97 - 旧余市福原漁場⑨ 主屋・親方の住居部分(帳場、茶の間、客間、縁側、仏間、中の間、次の間)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場・主屋で。親方専用の散髪椅子です。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場に来ています。


堂々たる佇まいの、主屋です。


主屋で、左半分を占めている、
「漁夫溜まり」を見終わったので、
次は、右半分(親方と家族の居住部分)を
見学します。


主屋の玄関を入り、右側を見ると、まずは帳場があります。

帳場の内側です。たくさんの木札、銭函(金庫)、そろばんが見えます。倉の鍵も、ここで保管されていました。

ニシンの形のウェルカムボードがありました。1995年(平成7年)から公開されているようです。
「ここは明治時代のニシン漁場の跡です。北海道の日本海沿岸は、明治から大正にかけて、毎年大量のニシンが獲れ、この余市にも24~25か所のニシン漁場がありました。ニシン漁の不振とともに、漁場は姿を消していきましたが、唯一、『福原漁場』だけが、往時の姿をほぼそのままに残しています。移築・復元ではなく、このようにまとまって残っているニシン漁場は、他には例がなく、そこに史跡としての大きな特色があります。ニシン漁によって権勢を誇った、昔のニシン漁場の姿を、ゆっくりご見学ください。」

この帳場から左方向に、土間に沿って親方の居住部分が続きます。


ここからは、靴を脱いで上がり、
この右半分のエリアを歩いてみます。
内部は広く、6つの部屋に分かれています。


間取図です。間取りが東北の民家に似ているのは、網元の多くが東北出身であったからと言われています。

まずは、帳場の隣りにある、茶の間に入りました

茶の間です。ここは、親方家族の部屋でした。親方家族の部屋は全て畳敷きです。欄間、床の間のしつらえ、そして北前船で運ばれた調度品に、暮らしの豊かさがうかがえます。

囲炉裏のそばに座布団を敷いてありますが、ここが親方の席でした。

茶の間から漁夫の溜まり場は、こんな風に見えます。親方は囲炉裏端で、漁夫溜まりに向かって座り、漁師がけんかや賭け事をしないようにとにらみをきかせていたそうです。そのため、建具中央はガラスになっていました。この部屋からは、浜の様子も見えたそうです。

茶の間から、次は左手に進んでみます。

茶の間の奥には、客間があります。

客間です。ここにも、炉が切ってありますね。

客間の右隣りには仏間があるのですが、窓際の縁側に、椅子のようなものが見えます。

縁側に置かれていたのは、散髪椅子です。川内漁場の親方が、床屋の職人を自宅に呼び、散髪してもらうときに使用したもので、親方専用の椅子でした。

縁側と仏間です。

床の間の上には、明治天皇、大正天皇の写真が飾ってありました。

そして仏壇の上には、この漁場の最後の経営者・川内藤次郎氏の写真がありました。

仏間の隣りの、中の間に入ります。

中の間の奥には、さらに次の間が見えます。

佐渡箪笥です。


【佐渡箪笥】
北前船の寄港地として栄えた佐渡ヶ島で作られた、日本を代表する美しい箪笥です。アンティーク時代箪笥の中でも王様の風格と言われていますが、市場に出回ることはあまりないそうです。
佐渡ヶ島の中でも、産地は、小木地方のものと八幡地方のものの2種類にわかれており、小木地方のほうが作りが良く美術品としての価値もあります。その理由は、小木産の方が舟箪笥の流れをくんだ作りとなっており、金具が厚く、ケヤキの木目も良く、豪華なものが多いためです。船主が芸者に買い与えたこともあったので、芸者箪笥とも呼ばれています。
一方、八幡地方のものは、大きな家具で金具が薄いのが特徴です。鶴亀や鳳凰など、めでたい図柄が緻密な透かしで表現してあり、その美しいデザインはため息がでてしまうぐらい圧巻です。


ネットで、佐渡箪笥について調べ、
写真をいくつも見たのですが、
この福原漁場に置いてあった佐渡箪笥よりも
凝った装飾を施しているものは、
ほとんどありませんでした。
かなりのお値打ち品のようです。


こちらも、装飾がほとんど同じです。同じ人に作らせたものだったのかもしれません。

これで、主屋の中の部屋を、すべて歩きました。


次回は主屋の外に出て、もう少し歩きます。


(つづく)