MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 6 - 小樽市鰊御殿⑥ 3つの茶の間、酒部屋、仏間、そして親方夫婦の部屋(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。MIYOが立っているところは、親方夫婦の居間(10畳)でした。(北海道小樽市)


5月10日(水)


帳場の隣りにある、茶の間に行きました。


写真のいちばん手前の部屋です。かつてはここに囲炉裏があったのですが、現在は取り払われ、代わりに火鉢が置いてありました。鴨居の上に黒く見えているのは、神棚です。

茶の間の上部に造られた、りっぱな神棚です。


【鰊御殿の神棚】
積丹郡鰊漁場親方である斎藤彦三郎氏が、越後の宮大工に製作させた、総檜造りのお堂です。北海道の開拓期には、鰊豊漁祈願のための神仏祈願が非常に熱心に行われました。各鰊場の親方も、競ってこのような神棚を安置し、盛大なお祭りを行いました。神棚のなかには、当時数千金を投じた豪華なものもありました。


神棚の左隣りに置かれていた、弓張りちょうちん入箱。網元の結婚式や初詣、お墓参りなどの式日や客人の迎え入れに使用するちょうちんを入れて保管しました。(この箱は青山家のものでした。)

弓張りちょうちんとは、竹を弓のように曲げ、提灯をその上下にひっかけて張り開くようにしたちょうちんのことです。

続いて、酒部屋と主人夫婦の部屋です。

奥が酒部屋だったのですが、今はリフォームされて、ふつうの和室になっています。そして手前が主人夫婦の部屋です。意外と狭い、6畳間でした。

主人夫婦の部屋には、この押し入れがあるだけです。

その隣りにある仏間は、主人夫婦の部屋よりもずっと広くて立派でした。

奥にある部屋が仏間です。書院造で、10畳もの広さです。(手前の着物がかかっている部6畳間は、主人夫婦の部屋です。)

案内パネルの向こう側をご覧ください。左が主人夫婦の部屋で、右が仏間です。主人夫婦の部屋は、着物がかかっているだけの幅しかありません。対して仏間には、押し入れと床の間が並んでいます。あまりの違いに笑ってしまいました。

仏間です。床の間には、書院が付いています。

書院には、美しい組子障子が設えてありました。

最後は、主人夫婦の居間と家族の茶の間です。

手前が家族の茶の間で、奥が主人夫婦の居間でした。

MIYOが立っている部分が親方夫婦の居間です。その右側(着物がかけてあるところ)が、親方夫婦の部屋。そしてこの居間の左側には…、

親方家族用の玄関がありました。(三和土には、なぜか、ニシンを炊く大釜が展示してあります。笑)


ここまで、親方家族の居住エリアで、
7つの部屋が並ぶ大広間と玄関を
ご紹介しました。


廊下は玄関前と縁側にあるのみで、
各部屋をつなぐ廊下などはないため、
部屋の移動をするときは、
他の部屋を横切ることもあったと思います。
自分のいる部屋に、
誰がいつ入ってくるかわからないという、
プライバシーのないレイアウトですが、笑
ただひとつだけ、
誰も入ってくることがない部屋があります。
それは、「主人夫婦の部屋」です。
そういう意味では、
狭くてもいちばんいい部屋が、
「主人夫婦の部屋」だったのかもしれません。


【鰊御殿とその主・田中福松】
明治~大正年間、積丹半島を中心に後志沿岸一帯はニシン漁の全盛期を迎え、数多くの豪勢なニシン漁舎が建てられました。小樽市鰊御殿もそのうちのひとつで、1897年(明治30年)に、田中家が莫大な費用と心意気をかけて建てたものでした。
その主・田中福松は、1854年(安政元年)、17歳のときに、青森県東津軽郡から叔父を頼って北海道に渡りました。当初は雇漁夫(ヤン衆)として働きましたが、その後、場所(漁場)を買い請け、明治中期には、積丹地方の代表的な漁業主になりました。


一階部分のいちばん奥には、階段がありました。親方家族用の玄関の隣りにあたります。

この階段は、二階の客間に続いています。ちなみに、階段の左側に少し見えているのは、親方家族用の便所です。残念ながら立ち入り禁止になっていて、中を見ることはできませんでした。


次回は、鰊御殿の2階部分を歩きます。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 5 - 小樽市鰊御殿⑤ 帳場と漁場風俗人形(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。目の前には、祝津の海が広がっていました。(北海道小樽市)


5月10日(月)


小樽市鰊御殿に来ています。


ここまでは、一階左半分(ヤン衆たちの居住エリア)を歩きました。次は右半分の、親方一家の居住エリアを見ていきます。

玄関部分から見わたした、親方エリアです。7つの和室が続く、大広間になっています。写真には6部屋しか写っていませんが、手前右側にもう一部屋あり、そこが帳場になっています。

これは、親方エリアの図面です。まずは、玄関の隣りにある、帳場から見て行きます。

帳場です。ふたつの玄関(親方用とヤン衆用)の間にあります。

ぐるっと反対側にまわって・・・、

ここに座れば、番頭さんの気分です。笑 この部屋には、窓以外の3面すべてに出入り口がありました。

帳場からは、こんなふうに屋敷の中が見渡せました。

「漁場風俗人形」と題した、ガラスケースがありました。ニシン漁が華やかなりし頃の、漁場で働く人たちの風俗(服装)を再現した人形が、びっしりと納められています。(1960年に、小樽市菅原多恵子さんから寄贈されました。)

ニシンの陸揚げをする、もっこ背負いの女性たちです。着物はもちろんですが、前掛け、手ぬぐい、襦袢、帯など、ふたりとして同じ服装の人がいません。ひとつひとつを丁寧に作っておられることがわかります。(陸揚げとは、汲み舟からポンタモですくってもっこに入れたニシンを、船間から廊下などに背負って運ぶ作業です。)

船の中で腰かけた女性のもっこに、漁夫がニシンをすくって入れています。

タモや綱を持って働くヤン衆たち。

ニシンつぶしです。(ニシンつぶしとは、身欠ニシンを製造するために、ニシンの腹を裂いて、内臓、数の子、白子、エラを除去する作業のことを言います。)
ニシンつぶしについて書いた日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 92 - 旧余市福原漁場⑤ 石倉(ニシンつぶしと漁の終焉)(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

ニシンつぶしの作業は、ふたり一組になって行われました。ニシンをつぶす作業に徹する「つぶし方」と補助役の「つなぎ方」です。ここでは、つぶし方がつぶしたニシンを、つなぎ方が縄でつないでいるシーンが描かれています。

ニシンつぶしで取り出した白子やカズノコです。ほんと、芸が細かい。笑


今から60年も前にこの人形を作り、
寄贈された、菅原多恵子さん。
その丁寧な仕事に、頭が下がりました。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 4 - 小樽市鰊御殿④ 小さなもっこ(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 鰊御殿で、たくさんのもっこたちと。(北海道小樽市)


5月10日(水)


囲炉裏がある漁夫だまりを見学しています。


ニシン漁を再現した模型がありました。

これ、とってもわかりやすくて、MIYOは大喜び。笑

ニシン漁のしくみが、たいへんわかりやすく説明されていました。下図のように、ニシン漁では、いくつもの船がまとまり、それぞれの役割をこなしています。


【魚の習性と網】
魚には、障害物があると沖に向かって泳ぐという習性があります。ニシン漁は、この習性を利用しています。まずは磯から沖に向けて、約300mの手編み(垣網)を張ります。この網に反応して、沖に向かって泳ぐニシンを、身網の中に誘い込んで捕獲しました。


①起船
漁は、身網を張る起船から始まります。この船には、大船頭、起船船頭、人夫まわしを含めて、10名以上のヤン衆が乗り込みます。ニシンの群来が起こるまで、彼らは船で寝泊まりして待ち続けます。
②磯船(口引船)
網のチェックをしたり、他の船の補助をします。磯船船頭2名が乗り込みます。
③枠船
身網に追い込まれたニシンを袋網に移します。枠船船頭と下船頭の2名が乗り込みます。

④袋伝馬
ニシンを移し替えた袋網を、袋澗(ふくろま)まで運びます。袋澗とは、ニシンを一時的に保管する施設のことを言います。替枠船頭ら3名が乗り込みます。

⑤伝馬船
1名が乗り、沖合の船に不足資材や食料を運びました。残った食料は、連続作業時の間食用となりました。


そして漁夫だまりの隣りには、
「漁夫寝部屋」がありました。


「漁夫寝部屋」はロフトのようになっていて、「寝台(ねだい)」とも呼ばれていました。

漁夫寝部屋の、ロフトの下にあたる部分です。かつてヤン衆たちがふとんを並べて寝ていた場所には、ニシン漁に関するものがところせましと並べられていました。

ひとつひとつを、ゆっくりと見て歩きました。


ここまでは、
これまでにもよく見た光景です。
でもここには、
今までに見たことがない物がありました。


ニシンを背負って運んだ、もっこです。いや、もっこが珍しいのではなく、驚いたのは、その手前に置かれた、小さなもっこです。

左は、女性用のもっこ。そして右が、男性用のもっこです。その手前にある小さなもっこは、子ども用のもっこでした。大人用と比べると、その小ささに驚きます。何歳くらいで背負ったのでしょうか。

「子どももっこ。容積0.6~2kg」と書いてあります。


子ども用のもっこ…。
なんとかわいらしい。😄
少しばかりのニシンを入れて、
2キロほどのもっこを背負った子どもが、
母ちゃんのあとをついて歩いたんですね…。


これは、幼児労働とか、虐待とか、
そう言ったものとは意味合いが違うと思います。
ニシンの群来が起こると、
大量のニシンが陸揚げされます。
そのニシンを、限られた時間にできるだけ多く、
運ばなければなりませんでした。
そのため、集落の者は全員が駆り出されました。
学校は休みになり、教師や生徒はもちろん、
さらには寺の僧侶までが、
もっこを背負ってニシンを運んだそうです。


集落全体がニシンで沸き返る中、
小さな子どもたちも、
大人と同じことをやりたかったのでしょう。
そんな子どもたちのために、大人たちは、
わざわざ子どももっこを
作ったのではないでしょうか…。


わずかなニシンを入れた小さなもっこを背負い、
大人たちといっしょに、ニシンを運ぶ子どもたち。
子どもたちはきっと、うれしかったと思います。
「自分は、大人と同じことができるんだ。」
と感じた子どもたちの、うれしそうな顔。
誇らしげな表情が、目に浮かぶようでした。


これまでに、いくつもの番屋を訪れましたが、
子ども用のもっこが置いてあったのは、
この小樽市鰊御殿だけでした。
小さなもっこからは、
泊村の人々が子どもたちに向けた
暖かいまなざしが感じられました。


使い込まれた、大人用のもっこ。内側には、ニシンのうろこが今も残っています。

かわいらしいもっこたちと。

もっこの隣りには、丸胴と角胴が置かれていました。鍋で煮たニシンを搾るための圧搾機です。圧搾機は、当初は角胴(右)でしたが、後に丸胴(左)が使われるようになりました。後に、丸胴はさらに改良されて、金属製になります。
ニシンの加工工程については、こちらでご紹介しています。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 104 - よいち水産博物館③ もっこ背負いからニシン粕の出荷まで(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

「粕くだき」です。ニシンを圧搾したあとの〆粕の粉砕器です。ある程度細かくした粕玉を入れ、ハンドルを回して砕きました。

手前の台にも、たくさん並んでいます。

万棒(まんぼ)です。もっこでニシンを運んだ回数や出荷した加工製品の数を把握するために使用した木札です。

「漁夫寝部屋」を利用した展示エリアは、ここで終わります。

ここから、2階に通じる階段を上がりました。

2階部分です。この部屋は、建築当時は屋根裏でした。大正5年に梁4本を取り除き、使用人部屋として使うようになりました。現在はガラスで保護されていて、中に入ることはできません。

この屋根裏には、巨大な梁がふんだんに使われています。

部屋の中には、当時の生活用具や衣類が展示されていました。中央には、クマの毛皮が見えます。クマの毛皮は、ニシン場の親方や船頭が好んで着用したものでした。展示されている毛皮は、安政の頃(1850年頃)から田中家の代々の当主(親方)が着用したものです。


これで、小樽市鰊御殿の左半分、
ヤン衆エリアの見学が終わりました。
次回からは、
右半分(親方の居住エリア)を見ていきます。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 3 - 小樽市鰊御殿③ くろこべりと、漁夫だまりの畳(2023年5月10日/1日め)

2021年11月15日 小樽市鰊御殿で。(北海道小樽市)


5月10日(月)


鰊御殿に来ています。


小樽市鰊御殿は、ゴールデンカムイにも登場しています。第5巻40話「鰊御殿」で、辺見ちゃんが杉元の手を引いて入っていった建物です。(画像をお借りしました)


ヤン衆たちが出入りしていた玄関から、
中に入りました。


玄関の内側です。中に入ると、まずは三和土で靴を脱ぎます。

そこでいきなり、もっこを見ました。

もっこは、大漁のニシンを背負って運ぶために使われたものです。が、ここでは、そのもっこが傘立てになっていました。笑(もちろん、オリジナルではなく複製品です。)

日本遺産のポスターがありました。「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」です。小樽市も、その寄港地のひとつでした。

何度見てもかっこいい、北前船。^^

さて、玄関を入ると、内部はふたつに分かれています。右側が親方の居住区。そして左側は、ヤン衆たちが寝泊まりしたところでした。

玄関の左右の壁には、「くろこべり」が飾られていました。「くろこべり」とは、鰊漁船の船尾に置かれたかざり板のことです。

親方エリア側に飾られたくろこべりです。この奥には、大広間が見えます。

こちらはヤン衆エリア側のくろこべりです。この奥は、かつてヤン衆の居住部分だったのですが、現在は、たくさんのゆかりの品を展示するスペースとなっています。


【小樽市鰊御殿のくろこべり】
玄関の左右にかけられているくろこべり(鰊漁船の化粧板)は、明治大正の頃、ニシン漁業の全盛期に、旧高島郡祝津村赤岩海岸でニシンの定置網を建てていた渡辺兵四郎氏の漁場で使用した枠船のくろこべりだったものです。全長3m60cmで、艫(とも)の両側に取り付けられていました。牡丹に唐獅子を配した彫刻は、船大工が自慢の腕をふるったものです。当時、漁場の親方達は、事業の豪勢さを競い、使用船にも惜しげもなく大金を投じていたことが、このくろこべりからもうかがえます。


こんなかざり板を枠船の艫(とも)に取り付けて、出漁したんですね…。^^ ニシン漁は、親方の、そして男たちの、最高の花道だったのでしょう。

玄関を入って左側のエリアです。こちらはかつて、漁夫だまりだったところですが、今は売店と展示スペースになっています。

ヤン衆エリアに並べられた展示品を、順に見て行きました。まずは、北前船(弁財船)・漁徳丸の模型です。こんな船が、ニシンを積んで全国をかけめぐりました。泊村田中漁場創設者である、田中福松氏が使用していたと言われています。


【小樽市鰊御殿の北前船(弁財船)】
田中福松氏と実兄の吉兵衛氏が、安政~文久年間(1850年代)に、物資の運搬のために使用した、150石積み型(約15t)と伝えられる北前船の模型です。船の中央の内部には、神棚、炉、障子、タンスなど、陸上の家屋と全く変わらない室内調度品を備えていました。
この模型は、田中家の本家で、福松氏の生家である、青森県東津軽郡蓬田村在住の田中吉兵衛氏が所蔵していましたが、1960年、小樽市へ寄贈されました。


そして「鰊盛業屏風」です(縮小・複製)。花田家4代目の伝七が自分の漁場を描かせたものです。網入れや網起こしから出荷までの、鰊漁に関する一連の作業が描かれており、1904年の米国・セントルイス万博にも出品されました。
花田家番屋を訪れた時の日記はこちらです。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 20 - 旧花田家番屋⑤(はなれと便所)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


この「鰊盛業屏風」の実物は、現在、
小樽市総合博物館運河館に展示されています。
この運河館には、
2021年6月に訪れているのですが、
屏風を見た記憶がありませんでした。
その理由は、当時の自分自身が、
「北海道のニシン漁のことを
 よく知らなかった」
ということにつきます。
自分の中に受け止める力がないと、
見ても記憶に残らないんですね…。😅


それが残念だったので、
2022年10月に、運河館を再訪し、
今度こそじっくりと、
オリジナルを見てきました。😄


でも、なにしろ屏風ですから、
オリジナルはあまりに大きくて、
一枚の写真におさめるのも一苦労でした。笑


ガラスの内側で大切に展示されている、「鰊盛業屏風」です。大きすぎるので、どうしても柱が入ってしまいます。すごい迫力でした。(2022年10月25日 小樽市総合博物館運河館)

これは、小樽市の宝ですね。^^

作業をする人々のようすが、詳細に描かれています。見ているだけで、ワクワクしてきます。笑


2回めの運河館の、誰もいない展示室で、
ただひとり屏風の前に立ちつくし、
いつまでも眺めていました…。
私にとってこの「鰊盛業屛風」は、
そんな、思い出深い、愛着のある絵です。


小樽市鰊御殿のヤン衆エリアを、さらに奥へと歩きました。

ここはかつて「漁夫だまり」と言って、ヤン衆が寝起きしたスペースです。囲炉裏が今も残されています。大勢のヤン衆たちが、大鍋で三平汁を炊いて生活しました。囲炉裏の上部には火棚が設けられていて、様々なものが吊り下げられています。
*このエリアには、一面、畳が敷かれています。違和感があるので、あとから小樽市がリフォームしたものと思われます。上の鰊御殿図でも、漁夫だまりは板の間になっています。これまでに見てきた番屋では、「漁夫だまり」は、必ず板の間になっています。畳が敷かれていたのは親方の居住エリアだけでした。

この囲炉裏も、ゴールデンカムイで描かれていますが、漁夫だまりは板の間になっていますね(当然です。笑)。が、漁夫だまりの周囲に土間があるのは、小樽市鰊御殿ではありません。このようなレイアウトになっているのは、留萌の花田家番屋ですね…。

これが花田家番屋です。中央に漁夫だまりを置き、その二辺に沿って土間がもうけられています。その周囲がヤン衆たちの布団を敷くスペースで、「ネダイ(寝台)」と呼びました。
ここを訪れたときのブログです。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 17 - 旧花田家番屋②(漁夫だまり、寝台、囲炉裏、あいのこ船)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


番屋に興味のない方には、
どうでもいい情報でしたね…。(スミマセン笑)
かつては、
「鰊盛業屛風」を見ても、なんのことやら、
だったのが、今では、
「漁夫だまりのレイアウトを見ただけで、
 それがどこの番屋であるかを当てられる」
ようになってしまいました。😅
我ながら、笑えます。


小樽市鰊御殿にもどります。囲炉裏の煙を吐き出すために、この部分の天井は高くなっており、上部には天窓がありました。

これは、多動夫がさらに高い丘まで登り、鰊御殿を見下ろして撮った写真です。煙出しのための入母屋屋根が屋根の中央に突き出ており、まるでお城の天守閣のようにも見えます。

海に面した側には、かつては天窓が取り付けられていました。ニシンの群来をいちはやく見つけるため、ここから沖を監視していたのでしょう。

火棚には、日常使用する雑多なものが吊り下げられていました。

この軍手のようなものは、「手かけ」です。身欠きニシンをつくる作業で、ニシンのエラと内臓を指で取り出すのですが、そのときに指を保護するために用いられました。

当時の食器類が、ケースの中に納められていました。ここまできれいに展示してある番屋はめずらしい。^^


これまでに訪れたニシン番屋でも、
当時の食器が展示されていることは多く、
それ自体は、そう珍しいことではありません。


が、この鰊御殿で驚いたのは、
ひとつひとつの品に、
丁寧に木札がつけられていたことです。
それぞれの展示品に込められた、
職員の方々の熱意を感じ、
思わず見入ってしまいました。


まずは下段左側から。ヤン衆が三平汁を食べるときに使った、三平皿です。明治時代のものと大正時代のものです。

これは昭和時代の三平皿です。

おひつ(漁場用)です。

中段左から、箱膳です。左は親方用で、右が船頭用。ヤン衆には箱膳はなく、長いテーブルで大勢が並んで食事をしました。

べんばち(粉物を入れて練る容器)、さはち(皿と鉢の中間的な形態のもの。)、酒とっくりです。

そして上段左から、酒とっくり(四升入り)と片口(四斗樽から汲み出したお酒を銚子や燗とっくりに入れる道具)。

酒杯と酒樽。手前のとっくりには、「一番よい酒 千歳鶴」と書いてありました。^^
MIYOが千歳鶴酒ミュージアムに行ったときの日記はこちらです。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 66 - お洗濯と千歳鶴酒ミュージアム。そして「ビヤホールライオン 狸小路店」でお昼ごはん(2021年11月8日/6日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

最後は漆器類です。ていねいに保存されていたことがわかります。


漁夫だまりに設けられた展示スペースは、
さらに続きす。
そしてこの先で、思いがけず、
今までに見たことのない、
とてもかわいらしいものに出会いました。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 2 - 小樽市鰊御殿② ふたつの玄関(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 鰊御殿で。(北海道小樽市)


そもそも、
北海道行きのチケットを買ったきっかけは、
「ANAにキュン!」でした。


「ANAにキュン!」は、ANAの感謝の日として、毎月29日に行われるキャンペーンです。


キャンペーンの内容は毎月変わるのですが、
3月29日のANAキュンでは、
「5〜6月搭乗 国内線特典航空券 
 減額マイルキャンペーン」

が実施されました。


このキャンペーンを利用すると、
2023年5月9日から6月14日までの期間、
国内線特典航空券の対象となる全路線で、
航空券と交換するのに必要なマイルが
減額となります。


通常でも、マイルを使って、航空券がオトクにゲットできるのですが、その必要マイル数がこんなにも減額されるのです。


これは見逃せません。
早速、多動夫と相談し、
札幌の往復チケットと交換することにしました。
(本当は旭川に行きたかったのですが、
 旭川は便数が少ないため、
 空席がありませんでした。)


羽田-札幌は片道37000円くらいでしょうか。
そのチケットを、通常は、
ANAの7500マイルで交換できるのですが、
3月29日限定で、5900マイルで交換できました。
つまり、往復74000円分を、
11800マイルで交換できたわけです。
ふたり分なら148000円分のチケットが、
23600マイルです。


23600マイル=ふたり分の往復航空券148000円分
ということは、
1マイルあたり6.27円分ということになります。
マイルはお買い物などで使うこともできますが、
その場合は、楽天ポイントなどのように、
1マイル=1円(1ポイント=1円)
にしかなりません。
でも航空券に交換すれば、たとえば今回のように、
1マイル=6円にまで価値が上がるのです。
(私はこれを、「ポイント効率」と呼んでいます。)
これが、マイルを航空券に交換する醍醐味です。


私は、楽天ポイントやdポイントも
貯めていますが、他のなによりも優先して
ANAマイルを貯める努力をしているのは、
ポイント効率がいいからです。
航空券と交換すれば、
1マイル(1ポイント)の価値が
何倍にも高まるのです。


まあ、もっとも、
航空券とか旅行とかに興味のない方には、
どうでもいい話なのですが…。笑


MIYOのANAマイル通帳です。3月29日付けで、23600マイル(羽田‐札幌往復航空券2枚分)が差し引かれています。(その少し前、3月22日に72500マイル使用しています。こんなにたくさん、なにに使ったのかは、ヒミツです。笑)


話は、「ANAにキュン」に戻ります。
5月の旅行先を北海道に決めたところで、
夫が尋ねました。
「で、何日間行くの? 4泊5日?」と。
それに対して、
「どうして4泊5日なの?
 なにか、東京に用事でもあるの?」
と答えるMIYO。🤣
夫は、昨年9月で完全リタイアしたので、
毎日ヒマです。


夫「いや、別に用事はないけど…。
  じゃあ、何日間にしたいの?」
み「10日。」
夫「は?」
み「10日でだめな理由がある? ないよね?
  私もあなたも、もう別に仕事してないし、
  急いで帰る必要もないでしょ?
  もうね。
  旅行=4泊5日って考えなくていいんだよ。
  思いきって長期の旅行にして、
  北海道でのんびりしようよ。」


このとき、夫はちょっと驚いていましたが、
特に反対する理由もなかったので、
9泊10日もの長い旅行をすることが
決まってしまいました。(アホ)😄


いつもいつも、3泊4日くらいの旅行で、
限られた時間内にあちこち行こうとして、
必ずドタバタ旅行になってしまう、私たち。
もうそういうのをやめて、
ゆっくりしたかったんですよね…。
10日間も行けば、時間に追われることなく、
のんびりできるんじゃないか、と考えました。


そしたら、どうなったと思いますか?


10日間の旅行に、3泊4日分の旅を3つ、
つめこまれました。😂😂😂
いつものドタバタ旅行が、
ノンストップで3つ続いたんですよ…。😔


MIYOがあこがれる、「なにもしない旅」。
結局、今回も、無理でした。
いや、多動夫がいる限り、
永遠に無理かもしれません。😂


でもまあ、楽しかったからいいか…。
一生の思い出になるような感動もありました。
そんな、旅のひとつひとつのできごとを、
少しずつ書いていきたいと思います。
新しい連載を、
いっしょに楽しんでいただけたらうれしいです。
どうぞよろしくお願いいたします。


5月10日(水)


第1話では、新千歳空港から小樽に行き、
お寿司屋さんでお昼ごはんをいただいた…、
ところまで書きました。
積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 1 - 小樽の「魚一心」で回転寿司。そして鰊御殿へ。(2023年5月10日/1日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


そして午後は、海岸沿いに、
祝津エリアへと車を走らせ、
同じ小樽市内にある、鰊御殿に到着しました。


丘の上にポツンと建っているのが、鰊御殿です。

手前の駐車場に車を停めて、ここから歩いていきます。

駐車場から鰊御殿までは、なだらかな坂道が続きます。

到着です。

屋根には、木製の鬼瓦が今も残っています。

鰊御殿です。


【小樽市鰊御殿】
明治時代に建てられた番屋です。当時の原型をほぼ留めている文化財で、大変貴重なものです。もともとは、青森出身の田中福松によって、1897年(明治30年)に、積丹半島の南側の付け根にある泊村に建てられたもので、建設には7年もの歳月を費やしています。北海道や東北地方の木材を使って建てられており、番屋の全盛期には120人もの漁夫が寝泊まりしていたそうです。

1958年(昭和33年)、北海道炭鉱汽船株式会社が、泊村にあった田中家のニシン漁場建築物を解体、現在の場所に移築し、その後小樽市に寄贈しました。1960年(昭和35年)には、北海道の民家では初めて「北海道有形文化財鰊漁場建築」に指定されています。
総面積は約185坪もあり、現存する鰊御殿としては最大級です。一部2階建てで、1階には、にしん漁やにしん加工に使われた道具や、番屋で暮らした人々の生活用具や服、写真やジオラマなどを展示しています。
近年では、人気漫画・アニメの「ゴールデンカムイ」に登場し、注目を集めています。


ここまで、新千歳空港→イオン小樽店→鰊御殿…と移動してきました。が、その鰊御殿も、はるか西にある泊村から移設されてきたものでした。

鰊御殿に近づいてみると、ふたつの玄関があることがわかりました。

右側の丸い屋根(むくり)がついているのが、かつては親方一家のための玄関でした。その左側にあるのが、ヤン衆たち使用人が出入りする玄関です。当時の番屋ではよく見られる形態です。

これは、札幌市にある旧青山家漁家住宅です。1919年(大正8年)年に建てられました。やはり、入口が二つ並んでいます。左側は、むくりのついた切妻型の入口ひさしで、ヤン衆(漁夫)たちが出入りする番屋の入口でした。右側は、反った千鳥破風の入母屋型の入口ひさしで、親方の住まいの玄関です。(2021年11月6日)
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 46 - 北海道開拓の村⑱(旧青山家漁家住宅①母屋)/ 山口かほるさんの個展(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

小樽市鰊御殿のとなりには、こんな鳥居もありました。当時の番屋では、どこでも、立派な神棚を置いたりして、神様を大事にしていました。ニシン漁の豊漁やシケの回避を願ってのことでした。

建物の前には、こんな風に細い道が一本あるだけです。そしてその先には、小樽の海が広がっていました。

いい眺めです。遠くの山には、まだ雪が残っています。

それでは、中に入ります。これは、かつてヤン衆たちが使っていた玄関です。現在は見学者用の入口になっています。


次回は、この扉の内側をご紹介します。


(つづく)