2021年11月15日 小樽市鰊御殿で。(北海道小樽市)
5月10日(月)
鰊御殿に来ています。
小樽市鰊御殿は、ゴールデンカムイにも登場しています。第5巻40話「鰊御殿」で、辺見ちゃんが杉元の手を引いて入っていった建物です。(画像をお借りしました)
ヤン衆たちが出入りしていた玄関から、
中に入りました。
玄関の内側です。中に入ると、まずは三和土で靴を脱ぎます。
そこでいきなり、もっこを見ました。
もっこは、大漁のニシンを背負って運ぶために使われたものです。が、ここでは、そのもっこが傘立てになっていました。笑(もちろん、オリジナルではなく複製品です。)
日本遺産のポスターがありました。「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」です。小樽市も、その寄港地のひとつでした。
何度見てもかっこいい、北前船。^^
さて、玄関を入ると、内部はふたつに分かれています。右側が親方の居住区。そして左側は、ヤン衆たちが寝泊まりしたところでした。
玄関の左右の壁には、「くろこべり」が飾られていました。「くろこべり」とは、鰊漁船の船尾に置かれたかざり板のことです。
親方エリア側に飾られたくろこべりです。この奥には、大広間が見えます。
こちらはヤン衆エリア側のくろこべりです。この奥は、かつてヤン衆の居住部分だったのですが、現在は、たくさんのゆかりの品を展示するスペースとなっています。
【小樽市鰊御殿のくろこべり】
玄関の左右にかけられているくろこべり(鰊漁船の化粧板)は、明治大正の頃、ニシン漁業の全盛期に、旧高島郡祝津村赤岩海岸でニシンの定置網を建てていた渡辺兵四郎氏の漁場で使用した枠船のくろこべりだったものです。全長3m60cmで、艫(とも)の両側に取り付けられていました。牡丹に唐獅子を配した彫刻は、船大工が自慢の腕をふるったものです。当時、漁場の親方達は、事業の豪勢さを競い、使用船にも惜しげもなく大金を投じていたことが、このくろこべりからもうかがえます。
こんなかざり板を枠船の艫(とも)に取り付けて、出漁したんですね…。^^ ニシン漁は、親方の、そして男たちの、最高の花道だったのでしょう。
玄関を入って左側のエリアです。こちらはかつて、漁夫だまりだったところですが、今は売店と展示スペースになっています。
ヤン衆エリアに並べられた展示品を、順に見て行きました。まずは、北前船(弁財船)・漁徳丸の模型です。こんな船が、ニシンを積んで全国をかけめぐりました。泊村田中漁場創設者である、田中福松氏が使用していたと言われています。
【小樽市鰊御殿の北前船(弁財船)】
田中福松氏と実兄の吉兵衛氏が、安政~文久年間(1850年代)に、物資の運搬のために使用した、150石積み型(約15t)と伝えられる北前船の模型です。船の中央の内部には、神棚、炉、障子、タンスなど、陸上の家屋と全く変わらない室内調度品を備えていました。
この模型は、田中家の本家で、福松氏の生家である、青森県東津軽郡蓬田村在住の田中吉兵衛氏が所蔵していましたが、1960年、小樽市へ寄贈されました。
そして「鰊盛業屏風」です(縮小・複製)。花田家4代目の伝七が自分の漁場を描かせたものです。網入れや網起こしから出荷までの、鰊漁に関する一連の作業が描かれており、1904年の米国・セントルイス万博にも出品されました。
花田家番屋を訪れた時の日記はこちらです。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 20 - 旧花田家番屋⑤(はなれと便所)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
この「鰊盛業屏風」の実物は、現在、
小樽市総合博物館運河館に展示されています。
この運河館には、
2021年6月に訪れているのですが、
屏風を見た記憶がありませんでした。
その理由は、当時の自分自身が、
「北海道のニシン漁のことを
よく知らなかった」
ということにつきます。
自分の中に受け止める力がないと、
見ても記憶に残らないんですね…。😅
それが残念だったので、
2022年10月に、運河館を再訪し、
今度こそじっくりと、
オリジナルを見てきました。😄
でも、なにしろ屏風ですから、
オリジナルはあまりに大きくて、
一枚の写真におさめるのも一苦労でした。笑
ガラスの内側で大切に展示されている、「鰊盛業屏風」です。大きすぎるので、どうしても柱が入ってしまいます。すごい迫力でした。(2022年10月25日 小樽市総合博物館運河館)
これは、小樽市の宝ですね。^^
作業をする人々のようすが、詳細に描かれています。見ているだけで、ワクワクしてきます。笑
2回めの運河館の、誰もいない展示室で、
ただひとり屏風の前に立ちつくし、
いつまでも眺めていました…。
私にとってこの「鰊盛業屛風」は、
そんな、思い出深い、愛着のある絵です。
小樽市鰊御殿のヤン衆エリアを、さらに奥へと歩きました。
ここはかつて「漁夫だまり」と言って、ヤン衆が寝起きしたスペースです。囲炉裏が今も残されています。大勢のヤン衆たちが、大鍋で三平汁を炊いて生活しました。囲炉裏の上部には火棚が設けられていて、様々なものが吊り下げられています。
*このエリアには、一面、畳が敷かれています。違和感があるので、あとから小樽市がリフォームしたものと思われます。上の鰊御殿図でも、漁夫だまりは板の間になっています。これまでに見てきた番屋では、「漁夫だまり」は、必ず板の間になっています。畳が敷かれていたのは親方の居住エリアだけでした。
この囲炉裏も、ゴールデンカムイで描かれていますが、漁夫だまりは板の間になっていますね(当然です。笑)。が、漁夫だまりの周囲に土間があるのは、小樽市鰊御殿ではありません。このようなレイアウトになっているのは、留萌の花田家番屋ですね…。
これが花田家番屋です。中央に漁夫だまりを置き、その二辺に沿って土間がもうけられています。その周囲がヤン衆たちの布団を敷くスペースで、「ネダイ(寝台)」と呼びました。
ここを訪れたときのブログです。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 17 - 旧花田家番屋②(漁夫だまり、寝台、囲炉裏、あいのこ船)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
番屋に興味のない方には、
どうでもいい情報でしたね…。(スミマセン笑)
かつては、
「鰊盛業屛風」を見ても、なんのことやら、
だったのが、今では、
「漁夫だまりのレイアウトを見ただけで、
それがどこの番屋であるかを当てられる」
ようになってしまいました。😅
我ながら、笑えます。
小樽市鰊御殿にもどります。囲炉裏の煙を吐き出すために、この部分の天井は高くなっており、上部には天窓がありました。
これは、多動夫がさらに高い丘まで登り、鰊御殿を見下ろして撮った写真です。煙出しのための入母屋屋根が屋根の中央に突き出ており、まるでお城の天守閣のようにも見えます。
海に面した側には、かつては天窓が取り付けられていました。ニシンの群来をいちはやく見つけるため、ここから沖を監視していたのでしょう。
火棚には、日常使用する雑多なものが吊り下げられていました。
この軍手のようなものは、「手かけ」です。身欠きニシンをつくる作業で、ニシンのエラと内臓を指で取り出すのですが、そのときに指を保護するために用いられました。
当時の食器類が、ケースの中に納められていました。ここまできれいに展示してある番屋はめずらしい。^^
これまでに訪れたニシン番屋でも、
当時の食器が展示されていることは多く、
それ自体は、そう珍しいことではありません。
が、この鰊御殿で驚いたのは、
ひとつひとつの品に、
丁寧に木札がつけられていたことです。
それぞれの展示品に込められた、
職員の方々の熱意を感じ、
思わず見入ってしまいました。
まずは下段左側から。ヤン衆が三平汁を食べるときに使った、三平皿です。明治時代のものと大正時代のものです。
これは昭和時代の三平皿です。
おひつ(漁場用)です。
中段左から、箱膳です。左は親方用で、右が船頭用。ヤン衆には箱膳はなく、長いテーブルで大勢が並んで食事をしました。
べんばち(粉物を入れて練る容器)、さはち(皿と鉢の中間的な形態のもの。)、酒とっくりです。
そして上段左から、酒とっくり(四升入り)と片口(四斗樽から汲み出したお酒を銚子や燗とっくりに入れる道具)。
酒杯と酒樽。手前のとっくりには、「一番よい酒 千歳鶴」と書いてありました。^^
MIYOが千歳鶴酒ミュージアムに行ったときの日記はこちらです。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 66 - お洗濯と千歳鶴酒ミュージアム。そして「ビヤホールライオン 狸小路店」でお昼ごはん(2021年11月8日/6日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
最後は漆器類です。ていねいに保存されていたことがわかります。
漁夫だまりに設けられた展示スペースは、
さらに続きす。
そしてこの先で、思いがけず、
今までに見たことのない、
とてもかわいらしいものに出会いました。
(つづく)