MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 15 - 番屋通りからイオン小樽店、そして小樽商工会議所へ(2023年5月10日/1日め)

2022年11月29日 旧青山本邸です。ここで、青山留吉が晩年を過ごしました。山形に残る、「もうひとつの鰊御殿」と言えます。(山形県遊佐町)


5月10日(水)


小樽市の番屋通りを歩き、
右端から、
 日和山灯台
 小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)
 旧近江家番屋
 旧白鳥家番屋
 旧茨木家中出張番屋(2022年6月)
…と見てきました。



この茨木家中出張番屋の隣りには、
茨木家の住宅と蔵があります。


美しい佇まいの、茨木家住宅。現在も個人の所有であるため、中を見学することはできません。(画像をお借りしました)


【茨木家住宅(旧茨木輿八郎番屋)】
住宅は、道路に面して立つ平屋の主家とその裏側にある2階建てのはなれからなっています。前庭の周囲には四角形の花崗岩を立てて道路との仕切りとしています。また、建物の正面右には、庭を取り囲む板塀と門を設けています。玄関は来客用と家族用に区別され、それぞれ異なった屋根を持っています。建物細部には草花をモチーフとした彫刻が見られ、当時の大工らの細やかな装飾が見所でもあります。


そしてその先にあるのが、
青山家の広大な敷地跡です。


祝津漁港に面した広いエリアに、旧青山家元場三番蔵、青山元場・蔵跡、青山元場廊下跡が並んでいます。


蔵跡、廊下跡、…などと、
現在は「跡」が残るだけです。
それらはどこに行ったのか。
青山家の番屋はどうなってしまったのか、
…と言いますと、それらはすべて、
北海道開拓の村(札幌市)
に移築されています。


北海道開拓の村は、小樽市から西へ、約50㎞離れたところにあります。

堂々たる佇まいの、旧青山家漁家住宅。玄関がふたつあり、右が親方一家用で左が漁夫用でした。(2021年11月6日 北海道札幌市 北海道開拓の村)


【旧青山家漁家住宅とその配置】
青山家は山形県遊佐町出身で、小樽沿岸でニシン建網を経営した漁家でした。建網とは、塀のように海の中に定置網を建て、囲われた網の中へ魚を追い込んで獲る漁法です。青山家元場(本拠地)には、10数棟の建物が存在しましたが、北海道開拓の村には、そのうちの7棟(母屋、文庫倉、石倉、板倉、米倉、網倉、外便所)が移築されています。このほかには、水揚げした鰊を収納した廊下、粕蔵、船倉などがありました。建物の前には、作業場や干し場とするための、広い庭が設けられています。鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な遺構の一つとなっています。

一群の建造物のうち、網倉を除いた各棟の配置は創建当時のままであり、日本海沿岸に一般的に見られた鰊漁場の景観に比べると特異なものとなっています。
海を模した池の浜から少し上がった平地に、海岸線に対して垂直方向に一直線に並べて建てられているのは、創建当時の配置を再現しているからです。これは、狭い土地を一定の間数で地割りした、江戸時代末期以来の土地の利用形態によるものです。


青山家漁家住宅を訪れたときの日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 46 - 北海道開拓の村⑱(旧青山家漁家住宅①母屋)/ 山口かほるさんの個展(2021年11月6日/4日め)


こうして地図に照らし合わせてみて、いつのまにか私たちは、番屋通りの主な番屋をすべて見てしまっていたことに、今さらながら気づきました。😄😄


いやいや、それでも、です。

祝津港の左端にある、青山元場廊下跡から、

右端の小樽市鰊御殿まで続く番屋通りを、

やはりいつか、自分の足で歩いてみたい、

と思います。^^


最後に補足になりますが、

地図上の左側に残っている一大スポット、

にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)

についても、ご紹介しておきます。



【にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)】
昭和の初期まで、小樽はニシン漁で栄えていました。このニシン漁に由来する歴史的建造物が、小樽市内にはたくさん残されています。中でも、この「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)」は別格で、人気漫画「ゴールデンカムイ」にも登場します。北の美術豪邸とも言われており、総工費は、現在の価格に換算すると約30億円と言われています。(国の登録有形文化財)
建築したのは、小樽市祝津の青山家。ニシン漁の網元で、明治から大正にかけて、青山留吉・政吉の親子2代で巨万の富を築き、「ニシン大尽」と呼ばれていました。青山家は、小樽から留萌にかけて、漁場約15箇所、漁船約130隻、使用人約300人を有しており、1914年(大正3年)頃には、年間で1万石(7,500t/現在の価値で約25億円)以上ものニシンを水揚げしていたと言われています。
その青山家の2代目政吉が、娘・政恵と共に6年半の歳月をかけて建てた別荘が、「旧青山別邸」です。棟梁がこだわりぬいて集めたヒノキ、けやき、紫檀、黒檀、神代杉、屋久杉などの建築材、春慶塗の廊下や柱、たも材の階段など、生活空間の随所に贅が尽くされています。隣接の「小樽 貴賓館」にある、138枚の花の大天井画も必見です。


にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)を訪れたときの日記です。

コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 39 - 小樽市総合博物館本館から「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)①」へ(2021年6月28日/4日め)
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 40 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)②(2021年6月28日/4日め)
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 41 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)③/テレカ寄付のお礼とお願い(2021年6月28日/4日め)
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 42 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)④(2021年6月28日/4日め)


「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)」の全景です。右が旧青山別邸で、左が貴賓館です。(画像をお借りしました)

わかりますでしょうか。鬼瓦は、帆に風を受けた北前船ですよ。^^


【青山留吉】
1836年(天保7年)、山形県の貧しい家で、第6子として生まれました。1859年(安政6年)、24歳の時に、北海道の漁場に1人で渡りました。

はじめは、後志国高島郡祝津村(小樽市祝津)で雇漁夫として働きましたが、約1年後に、小規模ながら同地にて漁場を開きます。そして明治期の積丹半島を中心に、漁場を次々と拡大しました。やがて青山家は、漁場15ヶ統余り、漁船130隻、使用人300人余を擁する道内有数の漁業家に成長します。
財を成した留吉は、故郷の山形県に、青山本邸を建設しました。後には田地250町余りを所有する大地主となり、一時は村税の8割を納めていたといいます。
漁業一筋48年の後、1908年(明治41年)、留吉は、北海道の漁場を養子の政吉に譲り、山形県に隠居しました。当時73歳でした。晩年は山形県で過ごしましたが、1916年(大正5年)、山形と北海道の両青山家の隆盛を見守りながら、81歳で、波乱万丈の生涯を閉じました。


補足の補足でたいへん恐縮なのですが、

青山留吉が故郷(山形県)に錦を飾り、

晩年を過ごした旧青山本邸も、

掲載しておきます。


山形県飽海郡遊佐町の旧青山本邸です。(国指定重要文化財)(2022年11月29日 山形県遊佐町)

コロナでも山形。初雪の中、冬が始まる庄内を歩く - 山形、尾花沢、出羽三山、遊佐、酒田、鶴岡、そして燕へ(2022年11月28日-12月2日) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


【旧青山本邸】
遊佐町の貧しい漁家に生まれた青山留吉が、北海道のニシン漁で功を成し、その財で故郷に建てた邸宅です。明治時代の特徴的な建築様式をよく残すものと評価され、平成12年に、国の重要文化財(建造物)に指定されました。
床や柱は欅の春慶塗り、漆くい壁、神代杉の巾広天井、うぐいす張りの廊下、端から端まで継ぎ目のない一本物の長押し(なげし)。紫檀、黒檀、タガヤサン、杉、つげを使った書院造の床の間。ふすまの引き手は七宝焼(当時は宝石と同価値)。欄間は、竹、紫檀、黒檀に彫刻が施されてあり、日本画の絵師たちが競って描いた見事なふすま絵や書もそのままに残されています。


ここまで、小樽市番屋通りにつながる、

一連の建築物について、書いてみました。

自分の記憶も整理できて、

なにかほっとしました。😄


それにしても、要領が悪いですよね…。

番屋通りのあたりは、がんばれば、

一日で全部見ることができる範囲にあるんです。


なのに私たちは、何日もかけて、

同じようなところをウロウロしていたわけで。

(アホですね…。😅)


結局、小樽には、これまでに3回行きましたが、

たぶん、次の北海道でも、

また小樽に行くんじゃないかな、と。

もうね。

次に小樽で、行きたいところと

やりたいことがあるんですよ。笑

何度行っても、小樽は好きな街。

興味は尽きません。^^


さて。

羽田から朝のフライトでやってきて、

ここまで15回も書いてしまって、

スミマセン。😅

ようやく、今日一日の予定が終わり、

本日のお宿に向かいます。


その前に、イオン小樽店に戻ってお買い物。だってこの日は5月10日。イオンで5%オフの日なんです。笑

スーパーと言えど、お土産物もたくさんあるし、今日買えば5%引きです!笑

多動夫が見るのは、いつだってお酒売り場なんですけど。(アホ)

MIYOがお土産コーナーで買ったのはこちら。356円のお菓子が半額です。コレは旅行中のおやつに。笑

そしてホテルへ向かいました。この日予約していたのはこちら。かつて小樽商工会議所だった建物です。(小樽市指定歴史的建造物)


【小樽商工会議所】

1933年(昭和8年)の建築で、鉄筋コンクリート造です。北海道の発展に寄与する小樽経済界の拠点となった建物でした。設計は土肥秀二、施工は萬組で、いずれも地元の手によるものです。外装は、石川県産千歳石で彫刻が施され、正面玄関には、土佐産の大理石が用いられています。昭和初期における鉄筋コンクリート造の建物として、貴重なもののひとつです。(小樽市指定歴史的建造物)


その正面玄関がこちらです。


この歴史的建造物は、

現在はホテルとして利用されています。

運営しているのは、星野リゾートです。^^


次回は、

ホテルの内部と客室をご紹介します。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 14 - 一年前ですが、北前船すごろくと田中酒造(2022年6月18日/2日め)

2022年6月19日 「旧花田家番屋」で。小樽から留萌まで、北前船とニシンを追いかけたあげくに、行きついた場所でした。(北海道留萌郡小平町)


6月18日(月)


旧茨木家中出張番屋のつづきです。
内部の見学は、これで終わりましたが、
最後にもうひとつ、
書き残しておきたいものがあります。


それは、Iさん心づくしのパネルたちです。
北前船が大好きなIさんは、
公務員として働く傍らで、
長い年月をかけて全国を歩き、
北前船にゆかりのある土地を訪ねました。
現在、そのすべてが日本遺産となっています。


Iさんが各地で撮り続けた写真は、
今はパネルとなって、
番屋の漁夫だまりに並べられています。
その数に驚いて、
「これ、全部Iさんがお作りになったんですか?」
と尋ねると、ちょっと恥ずかしそうな顔で、
頷いておられました。^^


以下、Iさん手作りのパネルたちです。
今後の自分の旅行のバイブルとして、
ここに記録させていただきたいと思います。


左上:山形県酒田市・日和山公園。北前船の船頭たちが、出航前に天候を見た公園です。1672年に西回り航路を整備した、河村瑞賢の像があります。
左下:新潟県新潟市・旧小澤家住宅。小澤家は、回船業や倉庫業などを営んでいた、新潟を代表する豪商です。北前船で運ばれたニシンなどの海産物は、さらに川舟で内陸の会津などまで運ばれ、新たな食文化を生み出しました。
右上:新潟県長岡市・白山媛神社。1774年(安永3年)から1889年(明治22年)にかけて、北前船が奉納した52枚の船絵馬があります。(国の重要民俗文化財)
右下:富山県富山市・旧森家住宅。森家は北前船の回船問屋で、代々肥料問屋を営みました。米作にニシン魚肥が使われるようになり、収穫高が向上しました。明治後期には、北海道の米の移入量の約半分が富山県からでした。

①の日和見公園には、私たちも行きました。雨の中を歩いたあげく、北前船にはカバーがかかっていましたが、河村瑞賢像と日本最古の木像六角灯台を見てきました。(2022年11月30日 山形県酒田市)
日和山灯台についてのお話はこちらです。
積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 9 - 小樽市鰊御殿⑨ 日和山灯台とカモメ(2023年5月10日/1日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

②の小澤家住宅。ここもすばらしい邸宅でした。(2022年10月18日 新潟市)

②の「食文化」で思い出すのが、会津若松の渋川問屋です。会津郷土料理のフルコースをいただきました。(2023年4月5日 福島県会津若松市七日町)


【渋川問屋】
120年以上もの歴史をもった、元海産物問屋だった建築物です。現在は食事処となっており、かつての佇まいを残し、レトロで落ち着く雰囲気の中、会津で代々引き継がれてきた郷土料理をいただけます。

【会津料理とニシン】
北前船に積まれた身欠きニシンや棒タラが、北海道から新潟を経て、会津に運び込まれました。海に面していない会津では、干物が貴重なたんぱく源であり、欠かせない郷土の味になりました。


私たちがいただいたのは、「会津会席膳」。食前酒、こづゆ、棒タラ煮、ニシンの山椒漬、ニシンの天ぷら、ニシンの昆布巻、会津牛カットステーキ、焼き魚、小鉢、そば粒がゆ、季節の混ぜごはん、そして水菓子 。すばらしい器で、会津料理を堪能しました。^^

ニシンの昆布巻です。

左上:⑤石川県志賀町の福浦港。河村瑞賢が提案した北前船西回り航路の正式寄港地でした。二つの入り江を持つ、絶好の風待ち港には、現在も、日本最古の木造四角灯台(1876年建造)が残っています。
左下:⑥石川県小松市の安宅住吉神社。北前船の船乗りたちが天候を見た山にあります。周辺の農村では、ニシンの魚肥が肥料として使われました。
右上:⑦富山県高岡市の旧秋元家住宅。北海道から運ばれたニシン魚肥や昆布の揚地であり、北海道へは米と共にニシン釜などの鉄製品が運ばれました。
右下:⑧石川県輪島市の住吉神社石造鳥居。鳥居に使われている御影石は小豆島産で、大阪で加工したものを北前船で運びました。輪島塗は、北前船の寄港地であった輪島から全国に販路を拡大し、北海道でもニシンの親方達に普及しました。

⑦で思い出すのが、高岡市の金屋町通り。1609年の高岡城築城時に、7名の鋳物師を現在の金屋町に移住させたことから、以後、高岡銅器産業の中心となりました。鋳物師町として知られた歴史があるだけに、ニシン番屋の巨大なニシン釜を供給するだけの実力があったのでしょう。(2020年7月24日 富山県高岡市)
コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 3 - 高岡市・金屋町を歩く(2020年7月24日/1日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

左上:⑨石川県加賀市の旧酒谷長兵衛住宅。かつて日本一の富豪村と言われた橋立は、多くの北前船主を輩出しました。旧小樽倉庫は、橋立出身の北前船船主である西出孫左衛門と西谷庄八が建てた倉庫です。酒谷長兵衛も北前船主で、住宅は、加賀市北前船の里資料館」として公開されています。
左下:⑩石川県加賀市の大聖寺瀬越。日本海5大船主の一人、」大家七平は、小樽に大家倉庫(日本遺産)を建てました。同郷の広海二三郎と、小樽の住吉神社第一鳥居(日本遺産)を寄進しています。
右上:⑪石川県加賀市の山中座。北前船の船乗りたちが当時をした温泉のひとつ。船乗りたちが歌った山中節(日本遺産)は、松前追分が期限であると伝えられています。
右下:⑫福井県坂井市の三国港・九頭竜川。江戸時代、北陸第一の港として栄えました。北前船を安定させるため、船底に積んだ笏谷石は、三国港から積み出されました。

⑨の「加賀市北前船の里資料館」は、忘れられない場所です。この地で初めて、「北前船」と出会い、以来3年間、北前船の虜になっています。笑 写真は、橋立の町並みです。笏谷石を使用した石段は、今では苔むして、柔らかな質感を感じさせる集落となっています。(2020年7月26日 石川県加賀市)
コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 17 - 加賀橋立 北前船主集落(2020年7月26 日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 18 - 北前船の里資料館(2020年7月26 日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

加賀橋立・北前船主屋敷 蔵六園です。(2020年7月26日 石川県加賀市)
コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 19 - 北前船主屋敷 蔵六園(2020年7月26 日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

橋立出身の北前船船主である西出孫左衛門と西谷庄八が建てた、旧小樽倉庫です。(2021年6月28日 北海道小樽市)
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 35 - 色内大通りから旧小樽倉庫(北前船の世界)へ(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

左上:⑬福井県南越前町の右近家住宅。「北前船主の館・右近家」として公開されています。主の右近権左衛門は、日本海5大船主の一人で、小樽に右近倉庫(日本遺産)を建てています。
左下:⑭福井県小浜市の旧料亭酔月。茶屋町にある明治時代の料亭で、かつて北前船主や商人たちが利用しました。小浜は、大阪などへ運ばれるニシンなどの海産物の揚地でした。
右上:⑮広島県尾道市の尾道水道。北前船の寄港地として繁栄した、瀬戸内海最大級の港町で、ニシンの〆粕などの揚地でした。尾道の石工による石造物が、小樽の住吉神社や水天宮にあります。
右下:⑯広島県福山市の鞆港常夜灯。福山藩内に綿花栽培が普及したことにより、港が発展しました。港からは、北前船で大量の〆粕が荷揚げされました。常夜灯は、1859年(安政6年)に建造されました。

⑬の右近権左衛門が建てた、右近倉庫です。ローソンのサインが残念なのですが…。😅(2023年5月12日)

左上:⑰広島県呉市の千砂子波止。江戸時代後期に、芸州藩が築いた防波堤です。御手洗港は、風待ち・汐待ちの港であったことから、北前船の往来で発展しました。
左下:⑱広島県竹原市の竹原の町並み。塩や酒の生産地として、北前船の回船でにぎわいました。町並みは、国の伝統的建造物群保存地区に選定されています。ニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝の生誕地でもあります。

中上:⑲岡山県倉敷市のむかし下津井回船問屋。干拓地に綿花や菜種を栽培するため、ニシンの〆粕が肥料として使われました。むかし下津井回船問屋は高松屋の建物で、敷地内には現在もニシン蔵があります。
中下:⑳兵庫県赤穂市の坂越の町並み。赤穂の塩を運ぶ塩回船や北前船などが行き交い、赤穂藩の交易港として栄えました。回船業や酒造などで財を成した奥藤家の酒蔵など、往時の町並みが保存されています。
右上:㉑徳島県藍住町の藍の館。藍の豪商であった旧奥村家の屋敷です。阿波藍の栽培に、北前船で運ばれたニシンの〆粕が使われ、北海道との交流が始まりました。明治10年代からは、徳島県民の北海道移住が始まりました。
右下:㉒香川県琴平町の金刀比羅本宮拝殿。海の守護人を祀っていたため、大阪を出航した北前船の船頭や船乗りたちが、参拝のために立ち寄りました。


以上、北前船の構成文化財が残る、
全22か所です。
これをすべて歩かれたIさん。
すごいです…。😄
そして、うらやましいです。^^


こうして見ると、
私たちも少しは訪れているのですが、
まだまだ、行ってないところだらけです。
これだけ並べてみると、
まるで、「北前船すごろく」のような。🤣
でも、「あがり」は、
いったいどこなのでしょうか。🤣🤣


北前船が大好きで、
仕事の休みを利用しては、
自分の足で全国を回り、
写真を撮り続けた、Iさん。
思わず、お尋ねしてしまいました。


「奥様といっしょに旅行なさらないんですか?
 奥様を連れて行ってあげたら、
 喜ばれるんじゃないですか?」
と…。


「いやぁ…。😅
 本人が『私も行ってみたい』と言うので、
 一度、いっしょに行ったんですけどね。」
「…そしたら?」
「そしたら、
 『つまらない。もう二度と来ない。』
 と言われてしまいまして…。😅」


あ…。
そうだったんですね…。😂😂


北前船とニシン漁が大好きな女が
妻だったことに、感謝しなさいね。
…と、夫に言いたくなりました。


旧茨木家中出張番屋をあとにして、次に向かったのは、小樽市中心部にある、田中酒造です。

看板にも、歴史を感じます。

閉店時間ギリギリでしたが、なんとか間に合いました。

レジ前のスペースでは、昔の居間を再現してありました。


コロナ禍でしたが、
試飲もさせていただきました。
多動夫もお酒が買えて、うれしそう。^^


これで、
2022年6月18日の日記を終わりますが、
このあと、6月19日から21日の分は、
実は過去に書いております。
ひとつの旅が小間切れ状態になっていて、
ずっと気にかかっておりましたので、
以下にまとめておきます。
(6月17日と18日の前半が書けていないのですが、
 それはまたいつかの機会に…。笑)


気になるタイトルがありましたら、
お読みいただけたらうれしいです。^^
それでは、次回からは、
2023年5月の旅にもどります。


(つづく)


【2022年6月18日-21日】
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く
1 - あいろーど厚田と秋田藩増毛元陣屋跡①(2022年6月19日/3日め)
2 - 秋田藩増毛元陣屋跡②(2022年6月19日/3日め)
3 - 秋田藩増毛元陣屋跡③ / 唐箕でつながる旅(2022年6月19日/3日め)

5 - 國稀酒造② / ココスで航空券を予約しました!(2022年6月19日/3日め)
6 - 國稀酒造③、すが宗の鮨弁当、旧商家丸一本間家①(2022年6月19日/3日め)

7 - 旧商家丸一本間家②(呉服店舗、奥帳場)(2022年6月19日/3日め)

8 - 旧商家丸一本間家③(茶の間、仏間、奥の間)/ 本間キミさん(2022年6月19日/3日め)

9 - 旧商家丸一本間家④(客間、次の間、上勝手、台所、下勝手)(2022年6月19日/3日め)
10 - 旧商家丸一本間家⑤(呉服蔵と本間一夫さん) / 「怪物ダコと美男の千吉」(2022年6月19日/3日め)
11 - 旧商家丸一本間家⑥(多目的便所と醸造蔵)(2022年6月19日/3日め)
12 - 旧商家丸一本間家⑦(付属家)から千石蔵へ(2022年6月19日/3日め)
13 - 千石蔵①(2022年6月19日/3日め)
14 - 千石蔵②、津軽藩増毛勤番越年陣屋跡、志満川食堂、港町市場(増毛町えびまつり)(2022年6月19日/3日め)
15 - 港町市場でえびまつり(2022年6月19日/3日め)
16 - 旧花田家番屋①(ニシン回廊)(2022年6月19日/3日め)
17 - 旧花田家番屋②(漁夫だまり、寝台、囲炉裏、あいのこ船)(2022年6月19日/3日め)
18 - 旧花田家番屋③(台所、棚部屋、親方の部屋、帳場)(2022年6月19日/3日め)
19 - 旧花田家番屋④(帳場、金庫の間、仏間、奥の流し)(2022年6月19日/3日め) - /a>
20 - 旧花田家番屋⑤(はなれと便所)(2022年6月19日/3日め)
21 - 「道の駅 おびら鰊番屋」で晩ごはん(2022年6月19日/3日め)
22 - 増毛駅、富田屋旅館、風待食堂(2022年6月19日/3日め)
23 - 焼きそば弁当とニシンのねぎ味噌だれ(2022年6月19日/3日め)
コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ
1 - 「回転寿司 根室花まる 大同生命札幌ビルmiredo店」でお昼ごはん(2022年6月20日/4日め)
2 - 白樺の林を抜けてフロントへ / お揃いの冷蔵庫(2022年6月20日/4日め)
3 - ちむどんどんのチェックイン / 星野リゾートと界(2022年6月20日/4日め)
4 - ちむどんどんの71㎡(2022年6月20日/4日め)
5 - 神窓のある部屋 / おいしかったイヨマンテ(2022年6月20日/4日め)
6 - ご当地楽「イケマと花香の魔除けづくり」(2022年6月20日/4日め)
7 - とんがり湯小屋「△湯(さんかくのゆ)」(2022年6月20日/4日め)
8 - ポロトの森を歩く。(2022年6月20日/4日め)/a>
9 - 「界 ポロト」で晩ごはん①(2022年6月20日/4日め)
10 - 「界 ポロト」で晩ごはん②(2022年6月20日/4日め)
11 - 至福の温泉ざんまい(2022年6月20日-21日/4日め-5日め)
12 - 「界 ポロト」で朝ごはん(2022年6月21日/5日め)
13 - チェックアウト(2022年6月21日/5日め)
14 - 「Café RIMSE(カフェリムセ)」でお昼ごはん(2022年6月21日/5日め)
15 - 「ななかまどイレンカ」から仙台藩白老元陣屋資料館①へ(2022年6月21日/5日め)
16 - 仙台藩白老元陣屋資料館②(2022年6月21日/5日め)
17 - 仙台藩白老元陣屋資料館③から白老仙台藩陣屋跡①へ(2022年6月21日/5日め)
18 - 白老仙台藩陣屋跡②(外曲輪とアカマツ)(2022年6月21日/5日め)
19 - 白老仙台藩陣屋跡③(仙台藩士の墓)/ 「弟子屈」で晩ごはん(2022年6月21日/5日め)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 13 - 一年前ですが、旧茨木家中出張番屋③ / 葉とらずりんごジャムと嶽きみバター(2022年6月18日/2日め)

2022年6月18日 旧茨木家中出張番屋で。(北海道小樽市)


6月18日(土)


旧茨木家中出張番屋では、Iさんから、
ニシン漁のこと、北前船のことなど、
ていねいな説明をしていただきました。
それはもう、ワクワクするような
ひとときでした。^^



かつてニシンで沸いた小樽ならではの、
貴重な写真がたくさん展示してあったので、
ここに掲載させていただきます。


①汲み揚げ:大タモをあおって、枠船から汲み船へとニシンを汲む作業です。

②もっこ背負い:汲み船からもっこで背負い、ニシンを前浜へ揚げる作業です。

③納坪(なつぼ)へ:もっこ背負いがからだをかがめ、背中のニシンを仮置き場に落としているところです。

④ニシンつぶし:身欠きニシンを作るため、エラや内臓を除き、数の子と白子に分ける作業です。

⑤白子干し:ニシンから取り出した白子は、はじめは簾(すだれ)で干し、生乾きになったら筵(むしろ)に広げて干しました。

⑥身欠き木架(なや):ニシンつぶしが終わった後の身欠きニシンの干し場です。十数日ほど乾燥させます。

⑦粕炊(かすだき)釜場:ニシン粕を作るため、釜でニシンを煮る作業です。この後、角胴で圧搾します。

⑧粕玉(角胴で圧搾されたあとの漁粕):角胴をはずして、粕玉を取り出しているところです。

⑨粕玉:角胴から取り出した粕玉は、この後、細かく刻まれ、ムシロの上で天日干しにしました。


これまで、余市福原漁場などの遺構を訪れ、
当時の建造物をいくつも見てきましたが、
一連の作業をリアルに伝える写真の数々を、
ここで見せていただいたことで、
自分の中でのニシン漁場のイメージが、さらに、
生き生きとしたものになったような気がします。
余市福原漁場を訪れたときの日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 88 - 旧余市福原漁場① 網倉(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ニシンが肥料になるまでの、一連の流れです。(大林組季刊誌より)

北海道産ニシン魚肥は、日本海航路を経由して北陸・瀬戸内・畿内に運ばれました。19世紀後半には、日本で最大の販売肥料として、日本の農業を支えました。北海道から遠く離れた倉敷には、今も「ニシン蔵」が残されているそうです。(画像をお借りしました)

そして、この北海道産ニシン魚肥こそが、北前船の最大の積み荷でした。一度の航海で現在の数億円分を稼いだとも言われています。


海を駆けた男たちの、一攫千金物語。
…とでもいいましょうか。
莫大な富をもたらした、
ニシン漁と北前船。


彼らが活躍した100年あまりの年月は、
まるで、夜空に打ち上げられた
壮大な花火のようです。
そしてその花火は、
やがてあっけなく消えてしまい、
二度と戻ってくることはありませんでした。


小樽近郊で、明治20年ごろには9万トンものニシンが水揚げされましたが、昭和27年を最後に、ニシンは獲れなくなりました。


その原因は、明確にされていませんが、
私は、長年続いた乱獲だったと思っています。


かつてのアイヌ民族のように、
「自分が食べる分だけを獲る」
という生き方をしていれば、
ニシンが消えてしまうということも
なかったのかもしれません。


煮て絞って、その粕を干して全国にばらまく。
…なんてことをやっていれば、
いくら広い北海道であろうと、
ニシンは枯渇してしまいますよね…。😔


長男の桜まつり出演におっかけしたあと、イオン多摩平の森店に並べられていた、ニシンの塩焼き(398円)。人間もこういうのを食べるくらいにしておけばよかったのに…と思うと、ニシンに申し訳ない気持ちになりました。😅(2023年4月1日)

「桜まつり」の日記はこちらです。
全盲難聴・のんたん 4年ぶりの「桜まつり」で演奏しました。①(2023年4月1日) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ボランティアのIさんといっしょに。


Iさん手作りの資料だらけだった、
旧茨木家中出張番屋。
Iさんの、番屋や北前船に寄せる思いが、
伝わってきました。
リタイア後をどう生きるかと考えた時、
必ず思い出すのが、Iさんとの出会いです。


(つづく)


(おまけのお話)


最近食べてみておいしかったものの
お話です。


2022年11月の青森旅行で訪れた、
津軽藩ねぷた村


見事な山車と津軽三味線の演奏を堪能しました。(2022年11月8日 青森県弘前市)


この旅行で買ってきたものを、
大事にしまってあったのですが、
最近になって、
ようやくいただいています。笑
それがとてもおいしかったので、
ご紹介します。


さすが青森県。ねぷた村のお土産コーナーには、りんごジャムだけで、いったい何種類あるのかわからないくらい、いろんなのが置いてありました。

MIYOが買ったのは、写真右の「葉とらずりんごジャム」。いや、理由はありません。なんとなく、「葉とらず」って言葉にひかれただけです。笑


【葉とらずりんご】
秋を迎え、りんごの実が赤くなる頃に行われるのが、「葉摘み」と呼ばれる作業です。果実の周囲に繁る葉を摘むことで、果実全体に日光が当たるようになり、果実の表面がむらなく赤く色付きます。
この葉摘みを行わずに、いわば自然の状態で果実を熟させたのが、「葉とらずりんご」です。「葉とらず」りんごは、太陽の光をたっぷり浴びた葉が作りだす養分を十分に蓄えるため、「葉摘み」したりんごよりさらに美味しくなります。りんごの表面に葉の影が残るため、一般的なりんごよりも外観は劣ることがありますが、それこそが、本来の美味しさのシンボルです。「葉とらずりんご」ならではの、豊かで芳醇な甘さを味わうことができます。


これ、ずっとしまってあったのですが、
最近、朝食のパンに塗ってみたら、
もう、それはそれはおいしいのです。
お砂糖控えめなのに、しっかりした甘み。^^
次に青森に行ったら、
絶対にまた買いたいと思います。


あっという間に葉とらずりんごジャムを食べきってしまって、次に開けたのが、嶽きみバター。


【嶽きみ(だけきみ)】
青森県産のとっても甘いブランドとうもろこしの名前です。津軽弁では、とうもろこしを「きみ」と呼びます。 「とうもろこし」から「とうきび」、「きび」と変化し、「きみ」となったと言われています。青森県弘前市の西部にある、津軽富士ともいわれる「岩木山(いわきさん)」。その麓、標高400~500メートルにある「嶽(だけ)高原」で栽培、収穫されたとうもろこしだけを「嶽きみ(だけきみ)」と呼びます。
とうもろこしは、気温が暖かくなると糖度が減少していきます。そこで、「嶽きみ」は収穫時間にもこだわり、最も糖度が高い早朝に収穫しています。採れたての「嶽きみ」の糖度は、18度以上。メロンなどの果実並み、もしくはそれ以上の甘さです。生でも食べられるこの甘さ、プチプチした弾ける食感とジューシーさは、やみつきになること間違いなしです。


青森に行って初めて知った、
「嶽きみ」
居酒屋で食べたらおいしかったので、
そのバターを買ってみました。


バターの中にとうもろこしの粒が入っているのかと思ったら、すっかりペースト状にされ、ふんわりとした食感のスプレッドになっていました。笑


嶽きみバター、おいしかったです!
「葉とらずりんご」も「嶽きみバター」も、
青森に行かなかったら、
出会えなかったおいしさでした。


普段、旅先では、あまり物を買わないのですが、
このときは、「青森県おでかけクーポン」
たくさんありました。
(おかげで、タダでゲットできました。笑)


旅行支援でいただいた、青森県おでかけクーポン。


クーポンのおかげで、
このときはタダでいただきましたが、
次に青森に行ったら、
お金を払って買って帰ると思います。


良いお品に出会えました。
ありがとうございました。(→旅行支援)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 12 - 一年前ですが、旧茨木家中出張番屋②(2022年6月18日/2日め)

2022年6月18日 旧茨木家中出張番屋で。(北海道小樽市)


6月18日(月)


旧茨木家中出張番屋のつづきです。


住民と行政が協力して、美しく蘇った、旧茨木家中出張番屋です。

ここまでは、玄関を入って左側の、漁夫だまりを見てきました。

次は、右側のエリアに行ってみます。

こちらには、畳が敷かれています。

玄関から入ってすぐの部屋は板の間で、囲炉裏が切ってあります。

鴨居に設けられた神棚。

このエリアでは、囲炉裏の部屋を囲むように、さらに5つの部屋が並んでいました。

3つの板の間と3つの和室が並んで作られています。

隣りの部屋(板の間)に設けられた囲炉裏です。

3つ並んだ和室です。座敷部分には棹縁(さおぶち)天井を張り、鴨居を設けています。この左側に、板の間が3つ並んでいます。


本来は、この右側部分が、
親方一家の居住エリアになるのですが、
この番屋では、なにか雰囲気が違います。


簡素な和室が3つ並んでいるだけで、
いかにも親方が住んでいたらしい部分が
見当たりません。
囲炉裏がふたつもあるうえ、
玄関を入ってすぐのところに
台所が設えてあるのも、奇異な感じです。
(通常の番屋では、台所は、
 漁夫だまりのさらに奥にあります。)


これが、この旧茨木家中出張番屋が、
他の番屋と基本的に違う点なのです。


中出張番屋の「中出張」という呼称は、
他の番屋にはありません。
「中」は、番屋の番号のようなものです。
そして「出張」は、
支店とか出張所のような意味があります。


多くの番屋では、内部を右と左に分け、
親方(網元)が漁夫たちと
同じ屋根の下で住み分けています。
が、茨木家の親方は、ここに住みませんでした。
この近くに本邸を構え、
家族と一緒にそちらに住んだのだそうです。


そのため、このエリアは、
親方の居住エリアとして使われず、
他の漁場の支配人などが出張して来るときに、
使用する場所となっていました。


板の間と和室がペアになったものが
3セットあり、
3人の出張者が同時に使い分けていた、
と考えれば、わかりやすいですね。^^


【茨木與八郎】
1841年(天保12年)、現在の山形県遊佐町で生まれました。1860年(万延元年)から、祝津の鱈釣や石狩川の鮭漁の漁夫となり、やがて独立しました。1877年(明治10年)には、ニシン漁場を入手して建網漁を始めます。その後も堅実な経営で事業を拡張。札幌や比布などに土地を購入して農業も営み、二代目与八郎のころには、造船業や倉庫業にも進出しました。
現在も、旧日本郵船小樽支店の前には、かつての茨木家の倉庫があります。また、札幌と定山渓を結んだ定山渓鉄道には、「北茨木駅」がありました(昭和8年から昭和32年)。これは、茨木家の農地の一部を寄付したことによるものでした。


小樽市に今も残る、旧茨木倉庫です。札幌軟石を使っています。1898年(明治31年)年に、茨木与八郎によって建てられました。(画像をお借りしました)

これは反対側から見たところです。2023年5月の旅で撮りました。(2023年5月12日)

こちらは、旧茨木家中出張番屋の天井部分にめぐらされた、太い梁です。板の間部分には天井を張らず、小屋組がそのまま見えます。

上棟の記録が、今も残されていました。明治43年6月5日とあります。

これは網倉の屋根瓦でした。祝津御三家と言われた青山家、白鳥家、茨木家のひとり、青山留吉が所有していた網倉の屋根に使用されていたものです。「明治21年大比田浦(現在の福井県敦賀市)」と刻印されており、北前船で運ばれてきたものと思われます。

旧茨木家中出張番屋にかけられていた、船絵馬です。北前船が描かれています。


【船絵馬】
船の安全を祈願して、船主や船頭は、自分の船を描いた船絵馬を神社などに奉納しました。ここに展示してある船絵馬は、かつて恵美須神社に奉納されたもので、日本遺産「北前船」の構成文化財となっています。


そしてこの出張者用エリアにも、Iさん心づくしの資料が置かれていました。これは、この番屋が登場する、「ゴールデンカムイ」の第5巻と第6巻です。わざわざ、付箋をつけてあります。^^

第5巻で登場した「小樽市鰊御殿」から数十キロ離れた別の番屋、という設定ですが、実はすぐ近くです。笑 外観はどう見ても旧茨木家中出張番屋。囲炉裏のある板の間と和室が描かれています。

Iさんから、ひとつひとつの資料について、丁寧に説明していただきました。話は尽きません。^^


北前船が大好きなIさん。
この番屋によせる思いに、頭が下がりました。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 11 - 一年前ですが、旧茨木家中出張番屋①(2022年6月18日/2日め)

2022年6月18日 積丹半島・神威岬で。(北海道積丹町神岬町)


5月10日(水)


期せずして、
小樽市・番屋通りに来てしまいました。


かつての名だたる番屋が建ち並ぶ、番屋通りです。


右端から、
 日和山灯台
 小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)
 旧近江家番屋
 旧白鳥家番屋
…と見てきました。


地図の順番からいくと、次は、
恵美須神社の隣りにある、
 旧茨木家中出張番屋
ということになります。


が、このときは、
茨木家の前を通っただけで、
中には入りませんでした。
その理由は、2022年6月の旅で、
旧茨木家中出張番屋を訪れているからです。
(すでに閉館時間になっていたので、
 今回は入りたくても入れなかったのですが。笑)


一年前に小樽を訪れたときは、
「番屋通り」のことなど知らなかったので、
この茨木家だけに行って、
それで満足して帰ってしまいました。
付近には、番屋がゴロゴロしていたというのに。
今思うと、もったいないことをしました。笑


そのときの日記は、
まだブログに書けていません。😅
でも、番屋通りの順に、
3つの番屋のことを書いてしまうと、
次はやっぱり、
 旧茨木家中出張番屋
…ですよね。


そして、ここで書かなければ、
この番屋の日記を、
いったいいつ書けるだろうか、
という気持ちもあります。
(たぶん永久にムリのような…。😅)


なので、2023年5月の旅からは、
ちょっとずれてしまうのですが、
ここで、以前訪れた、
 旧茨木家中出張番屋
の日記を、書いておこうと思います。



話は、今からちょうど一年前になります。
北海道5回目の旅は、
2022年6月17日から21日(4泊5日)で、
旧茨木家中出張番屋を訪ねたのは、
旅の2日め、6月18日でした。


6月18日(土)


この日の目的地は
旧茨木家中出張番屋
だったのですが、
前日、急に思いたって、朝から、
積丹半島に行ってしまいました。


午前中は積丹半島で遊び、

神威岬のいちばん端にある灯台まで歩きました。

「奇跡の生ウニ丼 赤」を死ぬほど食べて…。(2022年6月18日 三代目岩太郎丸直営うに処 田村岩太郎商店)
*積丹半島のウニ漁は6月から8月のみです。行くなら今です!😄


さんざん遊びまくっていたので、
旧茨木家中出張番屋に着いたときには、
午後3時を大きく過ぎていました。


旧茨木家中出張番屋です。


【茨木家中出張番屋】
北海道の日本海沿岸に見られる典型的なニシン番屋です。小樽市祝津の3大網元(白鳥、青山、茨木)のひとつである茨木家の初代当主・茨木與八郎(山形県遊佐町出身)が、明治期に漁夫の住宅として建てた物でした。祝津ニシン漁場の歴史的まちなみを形成する重要な建物のひとつです。
近年、腐朽が進み崩壊寸前でしたが、所有者はもちろん、町民や行政・関係業界・関係機関の尽力により、2010年に修復されました。2011年には、第19回小樽市都市景観賞を受賞しています。


「ゴールデンカムイの番屋」とあります。そう、この番屋も、ゴールデンカムイに登場するのです。^^

玄関を入ります。玄関の両脇に見えるフチ飾りは、「持送り(もちおくり)」と言うものだそうです。

玄関を入ると、正面にかまどがあります。その左側の板の間が漁夫だまり。

そして右側は、畳が敷かれたエリアです。玄関部分を境に、左右にエリアを分けているのは、これまでに見てきた番屋と同じです。

まずは、漁夫だまりを見て行きました。奥に、漁夫達が布団を敷いて寝た、寝台(ネダイ)が見えます。


漁夫だまりは、どこの番屋も同じように、
広い板の間になっています。


が、ここで驚いたのは、漁夫だまりの壁を埋め尽くすように置かれた、たくさんの資料と大漁旗でした。

そして、左手にびっしりと並べられた、たくさんのパネル…。ボランティアのIさんが、かつて、北前船にゆかりのある地を訪ねて全国を歩き、撮り続けた写真の数々です。すばらしいコレクションでした。

Iさんの思いがつまった資料のひとつひとつを見て行きました。

その資料のひとつです。「北前船がつないだ小樽と倉敷(ニシンと綿花)」。右は、倉敷に今も残るニシン蔵です。(画像をお借りしました)


【北前船がつないだ小樽と倉敷(ニシンと綿花)】
北前船の週着地であった北海道。明治なかば、北海道全体でニシンの漁獲高は90万トン以上ありましたが、そのうち9万トンが、小樽市内での漁獲でした。その9割は、食用ではなく、肥料に加工されました。ニシンを大釜でゆでたあと、プレスして油や水分を除いた「〆粕」は、栄養価が高く、日持ちもしたため、西日本を中心に高値で取引されました。
そのなかでも、倉敷を中心とした瀬戸内の綿花栽培には、大量のニシンが用いられました。その綿花から作られた帆は、北前船の安全性を高めました。現在も、倉敷市下津井地区には、「ニシン蔵」が残されています。


ニシンを煮た釜です。やはり、植木鉢にしてはいけないと思います…。(→旧白鳥家番屋)

「北前船がつなぐ小樽と加賀」という資料もありました。^^ その後ろに置いてあるのは、「こまざらい(こまざらえ)」という道具です。

ニシンの粕玉をムシロの上で裂いたあとは、早く乾燥させるために、1日に数回、粕をかき混ぜました。こまざらいは、そのかき混ぜ作業の時に使われたものです。びっしりとついた、ニシンのウロコをご覧ください。^^

按配棒:枠網に入っているニシンを汲み船にすくい揚げるときに使う大タモを、枠船側から押し上げる棒です。木製の2~3mほどの棒で、先端が二股になっています。
ヤサ鉤(かぎ):汲み船にニシンの入った大だもを引き上げるときに使用します。木製の1mほどの棒で、先端がかぎになっています。

もっこも、ウロコだらけです。


「これ、ニシンのウロコですよね?
 当時のウロコが、今も残ってるんですか?」
と感動しているMIYOに、
「ニシンのウロコっていうのはね。
 なかなか落ちないんですよ。」
と、笑っておられたIさんのことを、
今もなつかしく思い出します。


北前船が大好きだというIさん。ヤン衆たちが使っていたネダイには、今は、北前船が飾られていました。


【北前船(弁財船)】
江戸時代中期から明治30年代にかけて、主に大阪~北海道間を日本経由で航行した帆船。北海道からの最大の積み荷は、ニシン魚肥などの海産物でした。


Iさんの思いがたくさんつまっていた、
旧茨木家中出張番屋。
まさに、「手作りの資料館」のようでした。


(つづく)