MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 53 - タンロン王城遺跡⑧ 北門(正北門)と、タンロン王城遺跡の歴史(2023年6月18日/5日め)

2023年6月18日 タンロン城で。端門からフラッグタワーを臨みました。


6月18日(日)


後楼の見学を終え、
最後のスポットである北門へと歩きました。


【北門(正北門)】
タンロン王城遺跡の外周散策において、絶対にはずせないのが「北門(正北門)」です。1805年に、阮朝が整備したハノイ城塞の北門として築かれました。その躯体は、フランス人技術者の支援のもと、煉瓦造によって築かれており、横幅17m、高さ8.7m、奥行き20.48mと非常に巨大かつ堅固な造作です。入口部分は白い石で装飾されており、赤茶けた煉瓦とのコントラストによって、門全体の外観を引き締めています。建造当時は、この門の前に豊富な水を湛えた濠と橋が存在していました。また門の両側から左右の方向に向かって城壁が伸びていました。

当時のハノイ城塞には五つの城門が存在していましたが、現在にまで残っているのはこの北門のみです。「端門」や「龍の階段」などと並んで、タンロン王城遺跡を象徴する存在です。


北門は、後楼のさらに奥にあるのですが、ここからは立ち入り禁止になっていて、直進できません。いったん、ドラゴンハウスのあたりまでもどって、王城の外に出て、北門のある通りまで歩いていかなければなりません。😂😂


王城から外に出る出口は他にもあるのですが、
どれも閉鎖されており、
このときは、上の図の出口しか
通ることができませんでした。


しかたなく、出口まで延々と歩きます。

後楼から出口まで歩き、いったん王城の外に出ました。そしてここで、元来た方向にUターンして、歩道を歩き続けました。この歩道は、王城のエリアに沿って続いており、ここをずっと歩いた先に北門があります。歩道上には、ハノイ城塞時代の遺構が今も残っています。

右側にこんな建物を見ながら歩きました。後楼から北門までは、もともとは王城のエリア内ではありましたが、現在はこういう建物がたくさんあるので、入ることができないんですね…。

この歩道を左に曲がると、「ホアンジェウ通り18番地の発掘調査現場」というスポットがあります。ここでは、現在も進行している発掘現場を見ることができるようです。

「ホアンジェウ通り18番地の発掘調査現場」です。この場所で、8世紀以降の柱や土台の跡、レンガや井戸、水路などが、折り重なって発見されました。中国の陶磁器だけでなく、有田焼や伊万里焼も見つかったそうです。(画像をお借りしました)


なのですが。
もうね…。
暑くて、疲れてて、
それどころじゃないです。😂😂


「発掘現場まで見に行かなくていいよね…。」
ってことで、ここは省略しました。


そこからさらに、歩いて、歩いて。ようやく、北門が見えてきました。

上の写真の右端にいる夫が、このときに撮っていた写真です。

かつての北門の外観が、案内パネルに描かれていました。建造当時は、門の前に水を湛えた濠と橋が存在していました。また、門の両側から左右の方向に向かって、城壁が伸びていました。

現在は、濠も橋も城壁もなく、城門のみが残っています。

偶然見つけた、古い写真です。これは北門ではなく、1888年ごろの東南門です。現在は残っていません。驚いたのは、この東南門に、線路が敷かれていたことです。


【南東門の路面電車】
1885年、軍事政府は、租界地区と古代の城塞を結ぶ路面電車を建設しました。この路面電車は、3頭のラバが牽引しており、軍人と公務員専用でした。敷設当初は、各方向に 1日3便(日曜日は4便)運行していました。運行ルートは、租界地区から始まり、パップコック通り、トーカム通り、チャンティ通り、ニャチュン通り、その他多くの南部通りに沿って進み、終点が東南門でした。


この路面電車は、
当時の軍事政府が敷設したものですが、
フランス租界が始点(終点)だったことから、
やはりフランスの意向だったのかもしれません。
「一般庶民は乗ることができなかった」
ということにも、違和感を感じるところです。


為政者の思惑による近代化の流れの中で、
ハノイの城壁や城門は、
やがて次々と破壊されて行きました。


さて。この北門ですが、正面に立つと、左側の上下2か所に大きな穴があいているのがわかります。

大きくえぐられるように空いた、ふたつの穴です。


【北門のふたつの穴】
北門に穿たれたふたつの大穴は、かつてフランス軍によって撃ち込まれた砲弾の痕です。1847年4月15日のダナン砲撃に始まったフランスのベトナム侵攻は、1858年から1862年のコーチシナ戦争を経てハノイにも迫りました。1882年、フランス海軍士官アンリ・リビエールは、「ハノイでのフランス商人に対するベトナムの反発を調査する」という名目でハノイに入り、独断でハノイ城塞を攻撃して占領しました。その際に刻まれたのが、この痛々しい砲弾痕です。フランス人の協力によって築かれた門を、フランス軍が砲撃したわけです。
その後ハノイは、一時的にグエン朝(阮朝)へ返還されました。しかし、阮朝が宗主国である清朝に支援を要請し、事態を重く見た清国が介入したため、清仏戦争が勃発しました。

それぞれの国の思惑が交錯する中、結果的にベトナムは、隣国のカンボジア、ラオスと共にフランスの植民地(フランス領インドシナ)となりました。つまり、この正北門の砲弾痕は、フランスによる植民地支配の始まりを告げる遺構ということになります。


タンロン王城の中でも、
重要なスポットである、北門。
1882年にその北門に穿たれた大きな穴は、
見るも無残で、修理しようと思ったら、
これまでにいくらでもできたはずです。


けれどベトナムは、修理しません。
世界遺産となったタンロン城を、
今では世界中の人が訪れます。
そのすべての人々に、ベトナムの人々は、
「私たちの国の宝に、
 こんなことをした国があります。
 どうかみなさん、よく見てください。」
と、語り続けているのかもしれません。


したたかで、しなやかで、
そしてたくましい国、ベトナム。
北門に140年以上も残されている大きな穴は、
どれだけ侵略されても屈することがなかった、
彼らの芯の強さと苦難の歴史を
物語っているのだと思います。


最後にもういちど、
首都としてのハノイの歴史と
タンロン王城遺跡の概要について
まとめておきます。


【首都としてのハノイの歴史】
首都としてのハノイの歴史は、11世紀初頭にまで遡ります。1010年、中国の支配を退け、ベトナムに長期的な統一政権を打ち立てた李朝が、中国支配時代の砦の跡に宮城を創建し、都としたのがタンロン(昇龍の意)でした。李朝は、
それまでの首都であったホアルー(華閭)から現在のハノイにあたるタンロン(昇龍)へと遷都し、湿地帯を埋め立てて都城を築きました。それ以降、陳朝、胡朝、黎朝と王朝は交代するものの遷都は行われず、1802年に樹立したグエン(阮)朝がフエに都を遷すまで、タンロンは歴代ベトナム王朝の首都として繁栄しました。フエへの遷都後には、ハノイ(河内)という現在の地名に改められ、ベトナム北部を統治する主要都市としての役目を担います。
その後のベトナム戦争時には、王城内に作戦司令部が置かれました。ハノイは、実に1000年もの長きに渡り、政治権力の中心地となっています。


つまり、ベトナムの首都は、
長い歴史の中で、
①ホアルー→②ハノイ→③フエ
と移っていったことになります。


4年前、タムさんといっしょに行った、古都ホアルーの日記です。ホアルーも、現在はベトナムの世界遺産となっています。夏のホアルーは暑かったです。^^
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 66 - ホアルー&チャンアン日帰りツアー② ホアルー(2019年9月25日/25日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

こちらは、6年前に家族でホアルーに行ったときの日記です。こちらの方がより詳しく書いてあります。このときは冬だったので、コートを着て旅行しました。
のんたんの冬休み-31 おいしいものを食べる、ベトナム8日間おトク旅 - ベトナム王朝発祥の地「ホアルー」(2017年12月26日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


【タンロン王城遺跡の概要】
「タンロン遺跡」の特徴は、各時代の遺構が層となって現在も地中に残っているという点です。出土品からは、北方の中国文化や南方の古代チャンパ王国の影響も見られます。複数の文化が融合して、ハノイ特有の様式となって残っていることから、2010年に「ハノイ‐タンロン王城遺跡中心地区」という名称で世界遺産になりました。

タンロン遺跡は王城の跡地ではありますが、王城であった当初から残る建造物は、15世紀に築かれた「端門」と「龍の階段」しか残っていません。その理由は、グエン朝がフエに遷都した際、主要な建造物のほとんどを解体し、フエへと移築したからです。
その後グエン朝は、タンロン王城の跡地に、「大幅に規模を縮小したハノイ城塞」を整備しました。旧王城の中心部を取り囲んでいる城壁と門が現在も残っていますが、その多くは、19世紀にグエン朝が築いたものです。他の建造物と同様に黄色く塗られた煉瓦の壁は、現存する建物が少ないハノイ城としてよりも城塞であった頃の雰囲気をより伝えています。

その後タンロンの地は、インドシナ戦争やベトナム戦争の戦禍にさらされ続け、しだいに忘れられて行きました。

2002年、新国会議事堂の建設にあたって行われた発掘調査によって、ベトナム歴代王朝の壮大な遺構が、ようやく日の目を見ることになりました。このときの遺跡の発見によって、長らく軍の統治下にあったタンロンが、初めて一般に開放されました。観光できる世界遺産区域は端門から正北門までです。が、現在も発掘調査は続いているので、今後も、公開エリアが広がっていくかもしれません。


これでようやく、

タンロン王城遺跡の見学が終わりました。

もうそろそろ2時に近くなっていましたが、

遅めのランチにしようということで、

街を歩き始めました。


タンロン城の周囲には、こんなレストランがたくさんあります。


次回は、お昼ごはんの日記です。


(つづく)


(おまけのお話)


上野・アメ横を歩いていて見つけた「ベトナム」です。(2023年7月3日)


このお店、何年も前からあるのですが、

店頭には、

アジア系の食品ばかりを並べています。

これまでは、

そのすべてが中国製だったのですが、

最近はそれ以外の国の物も

みかけるようになりました。


で、「ベトナム産 ドリアンケーキ」

だそうです。

けっして買いたくはないですが。😅

臭いだろうなあ…。

ドリアン、大好きな人もいるから、

きっと売れるのでしょうが、

にしても、ひとつ900円は高い。

ベトナムで買ったら、いくらなのでしょう。

今度ベトナムで見かけたら、

調べてみようと思いました。^^

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 52 - タンロン王城遺跡⑦ 後楼(2023年6月18日/5日め)

2023年6月18日 タンロン城で。


6月18日(日)


地下に作られた、
二つの軍事施設を見学したあとは、
再び、北へ向かって歩きました。
次に目指すは、後楼です。


【後楼】
後楼は、遺跡入口から、端門をくぐり抜け、100mぐらい歩いた所にあります。D67作戦司令部のさらに奥の場所にあり、もともとは、敬天殿の楼閣として建てられました。その後、皇帝の側室やお世話役の女官たちが「控室」として利用する建物となったそうです。グエン王朝になり、都がフエに移った後は、ハノイを訪れた皇帝が敬天殿に宿泊する際に、随行員が控える場所として使われました。ですが、控室として使われたとは思えない、立派な建物です。
外観はベトナムらしい独特なデザインで、当時を偲ぶ趣きがあります。奥の方にあるためか、ここまで歩いて来る見学客はまばらです。が、タンロン遺跡のオススメの穴場で、必見の価値があります。



MIYOは、4年前に、
タンロン城に来ているのですが、
そのときは、D67作戦司令部までしか
見ていません。


当時、いっしょに見学していた兄が、
足を痛めており、
たくさん歩くのは難しい状態でした。
なので、チョンさんにお願いして、
兄の足に合わせた見学ルートで
案内してもらったのです。
だから、後楼に行くのは、
今回が初めてです。


すごい暑さでしたが、歩きますよ。ええ、歩きますとも。😂 ってことで、樹木が生い茂っている庭園を、後楼に向かってトボトボと歩きました。中央に見えているのはジャックフルーツの樹です。実がなっていました。^^

ジャックフルーツです。庭園内に、たくさんなっていました。


【ジャックフルーツ】
パラミツ(ハラミツ)とも呼ばれます。和名は漢語由来の波羅蜜。クワ科パンノキ属の常緑高木です。幹や太い枝に連なってぶら下がる果実は、長さ70cm、幅40cm、重さ40-50kgに達することもあり、世界最大の果実といわれています。その形は、歪んだ球形や楕円形が多く、ときに円柱形となり、長さにも差があります。果実の表面には数mmのいぼ状の突起があります。熟すと全体に黄色くなり、強烈な甘い匂いを放ちます。果実では、繊維状にほぐれる淡黄色から黄色の果肉や仮種皮を食用にします。種子は2cmほどのやや長円形で、これも食用になります。ジャックフルーツは生長が早く、実生から3年で果実をつけることもあります。


果実が巨大であることで知られる、
ジャックフルーツ。
熟した実が樹から落下し、
頭に当たって死ぬ人もいる、

…と聞いたことがありますが、
本当かどうかはわかりません。😅


こんなのもなっていました。

袋かけをしています。^^ 50年以上前の話ですが、MIYOの祖母は山でビワ栽培をやっていて、こんな風に、ビワに袋かけをしていたのを思い出しました。小さいころには、新聞紙で袋を作るのを手伝ったこともあります。😄

グーグル先生に訊いてみると、「グリーングレープフルーツ (Bưởi Da Xanh)」という果物であると教えてくれました。

この赤い果肉に、見覚えがあります。
4年前、兄夫婦が遊びに来たときに、
チョンさんが予約してくれたレストランで、
デザートでいただきました。
あまり酸っぱくなく、とても甘くて、
すごくおいしかったです。
そのときにチョンさんが、
「これはザボンの一種です。」
とおしえてくれました。


そのときに行った、ベトナム料理の有名店、「ニャー・ハン・ゴン」です。
このときの日記です。
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 113 - ニャー・ハン・ゴンでベトナム料理(2019年10月13日/43日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

さて。後楼に到着しました。

ここまで歩いてくる人の数は少なく、人影もまばらです。

あたりには花が咲き乱れていました。夫は、後楼そっちのけで花の写真を撮りに行き、しばらく戻ってきませんでした。😅

このときに夫が撮った花たちです。

夫が戻ってくるまで、MIYOは、後楼の外観を鑑賞していました。

ようやく戻ってきた多動夫。いつものことですが、今度は楼上に上がっていきました。🤣

…で、こうなりました。2階から顔だしてます。😁

狭く急な階段を上がると、部屋が3つあり、中央の部屋は、祭壇のようになっています。

楼上からは、今も発掘している場所が見えたそうです。

これで、タンロン城址内で現在公開されているエリアはすべて歩きました。


ここからは、いったん公開エリアの外に出て、
北門へと向かいます。


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 51 - タンロン王城遺跡⑥ 地下軍事作戦室(2023年6月18日/5日め)

2023年6月18日 タンロン城・地下軍事作戦室で。


6月18日(日)


前回は、タンロン城の中にある、
D67作戦司令部を見てきました。
ここはあまりにも有名で、
ほとんどの人が訪れます。
このスポットを見ることが、
「タンロン城に行く最大の目的」
と考えている人すらいます。


けれど。
あまり知られていないのですが、
タンロン城の中には、もうひとつ、
別の地下トンネルがあります。
地下軍事作戦室です。
軍事施設に関心のある方は、
こちらも訪れてみるといいかもしれません。


私たちは、
もうひとつの地下トンネルがあることすら
知らなかったのですが、
たまたま、チケットオフィスでもらった、
詳細な図面を読み解いているうちに、
このスポットの存在を知りました。


見学順路とは逆のところにあったのですが、
「来ちゃったからにはトコトン」
の私たちですから、😂
「これはやっぱり行くしかないよね。」
ってことで、炎天下、再び、
元来た道を引き返すことになりました。😅


地下軍事作戦室があるのは、敬天殿の広場の奥です。

わかりにくいので、マップを拡大してみました。「龍の階段」のすぐ近くで、黒い丸で囲んだ部分の地下が、「地下軍事作戦室」です。

敬天殿の前にある広場です。いちばん奥に太鼓があります。

この太鼓の後ろに垣間見える、黄色い建物。この建物に、地下軍事作戦室へと通じる入り口があります。

これが出入口です。GENERAL COMMAND HEADQUARTER とあるので、この地下室も、D67作戦司令部と同様の軍事施設です。D67は、最高レベルの将校たちのための施設でしたが、こちらには、D67を補佐する人々が日常的に勤務していたようです。

地下に通じる階段を降りていくと、ここでも、鉄の扉が二重に取り付けられていました。

鉄の扉の向こう側には、小部屋がありました。

その隣りの部屋です。D67の会議室よりは少し小さめの部屋です。

通信室です。

無線機や、たくさんの電話機が並んでいました。

換気室です。毒ガスフィルターや空気清浄機が設置されていました。

技術司令部である Factory 49 によって作られたシステムにより、毒ガス攻撃を受けても、この司令部内にガスが入り込まないように設計されていたそうです。


地下軍事作戦室の見学を終え、
出口から地上に出ました。
すると…。


目の前には、ベトナム戦争で爆撃を受けたハノイの街の、大きなパネルがありました。パメルの向こうには、端門の上部も見えます。この両方が、ハノイの歴史なんだな、と思います。

瓦礫の中で立ちつくす人々。

負傷者を運んでいます。

角を曲がると、ベトナム戦争当時の街のパネルがありました。その前に並ぶ、丸い穴。当時の歩道を再現しています。

実際に、穴が並ぶ歩道の写真もありました。はじめは、「マンホールが並んでいる」と思ったのですが、そうではなく、小さな防空壕でした。

空襲が始まると、人々はこの中に避難したのだそうです。

1967年の、ハノイの写真です。(画像をお借りしました)

こんな防空壕が、それぞれの前に作られていたんですね…。


800年続いた都の皇城には、
かつての城を偲ばせる遺跡と、
ベトナム戦争の名残が同居しています。


ハノイは、そんな街でした。


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 50 - タンロン王城遺跡⑤ D67作戦司令部(2023年6月18日/5日め)

2023年6月18日 タンロン城・D67作戦司令部で。


6月18日(日)


引き続き、タンロン城址の日記です。
暑さにめげず、さらに歩きました。😄


敬天殿はフランス軍によって壊されましたが、19世紀にベトナム最後の王朝となったグエン朝によって築かれたハノイ城塞の門や城壁は、王城の中心部を囲むように、いくつも残されています。なかでも写真の東門は、五重の屋根が乗った非常にユニークなデザインです。最上層には見張りの丸窓が設けられており、望楼のような独特なたたずまいを見せています。

カフェの隣りにあった門をくぐって、さらに奥へと進みました。

門の向こう側には、淡いグリーンの建物がありました。これが、D67作戦司令部です。


【D67作戦司令部】
ベトナム戦争時に、参謀室として重要な役割を果たした建物です。当時の会議室や地下会議室が、今も保存され、公開されています。


入口を入ると、そこは広い会議室になっていました。これは、地上会議室でした。

ベトナム共産党(北ベトナム)は、重要な会議をここで開催しました。特に、1974年の末から1975年初頭にかけては、南部(南ベトナム)開放の会議を頻繁に行い、1975年の南北統一につながりました。

テーブルには、ネームプレートが並んでいます。上座はレーズアン書記長の席のようです。

当時の戦略地図です。

同じ部屋を、反対側から撮りました。

さらに奥に進むと、小さい部屋がふたつありました。ひとつめは、ヴァン・ティアン・ズン (Văn Tiến Dũng) 将軍の執務室でした。


【ヴァン・ティアン・ズン (Văn Tiến Dũng)】
1917年生まれ。1936年、19歳でベトナム共産党に入党しました。1944年、フランスの刑務所から脱獄し、第二次世界大戦中は日本の占領軍と戦いました。1945年8月、ホアビン、ニンビン、タインホアの各省で軍を指揮。第一次インドシナ戦争中の 1953年10月までに、ヴォー グエン ザップ将軍の下でベトナム人民軍参謀長に就任し、1954 年のドンビエン フエ包囲戦に臨みました。その後 20 年間、北ベトナムにおける彼の軍事的評価は高く評価されました。

1972年のイースター攻勢中に、重要なトリ・ティエン・フエ戦線を指揮。1974年、ベトナム戦争がゲリラ闘争からより通常の戦争に発展したとき、指導者に代わってPAVN(ベトナム人民軍)最高司令官に就任しました。1975年には、春季攻勢を計画・指揮し、南ベトナムの防衛を圧倒し、1975 年、サイゴンを占領しました。
ベトナム戦争後は、ベトナムのクメール・ルージュ・カンボジア侵攻と、その結果として生じた1979年の中華人民共和国との国境紛争でも、指揮をとっています。1980年に国防大臣に任命され、1986 年に、69歳で引退しています。2002年3月17日、ハノイで死去。84歳でした。


その隣りにあるのは、ヴォー・グエン・ザップ (Võ Nguyên Giáp)  将軍の執務室です。

右からふたりめの方です。ホーチミン・トレイルを構築した人としても知られています。


【ヴォー・グエン・ザップ (Võ Nguyên Giáp) 】
1911年生まれ。独学のベトナム人民軍(PAVN)の将軍であり、共産主義革命家。多数の戦争でベトナム共産主義軍を指揮しており、20 世紀で最も偉大な軍事戦略家の一人とみなされています。

1941年から 1972年まではベトミン、その後 PAVNの軍司令官を務め、ベトナム民主共和国の国防大臣を務めました。その後、ベトナム社会主義共和国の首相や副首相を歴任しています。
クアンビン省の裕福な農民の家庭に生まれ、ベトナム民族主義者の息子として成長したため、若い頃から反植民地政治活動に参加し、1931年にホー・チ・ミン率いるベトナム共産党に入党しました。第二次世界大戦中、日本占領に対するベトミン抵抗運動の軍事指導者として名声を博し、戦後は、対フランス第一次インドシナ戦争で反植民地軍の軍司令官となりました。1954年、ディエンビエンフーの戦いで決定的な勝利を収めたことにより、フランス守備隊を降伏させ、戦争は事実上終結しました。
ベトナム戦争でも戦い、1968年のテト攻勢中に軍の指揮官を務めています。ケサンにある、孤立した米・海兵隊前哨基地を包囲し、次の攻勢のための陽動場所に変えました。その後、包囲が解除された際に、海兵隊は戦略基地を放棄しています。1972年のイースター攻勢の戦略立案にも関与し、その後ヴァン・ティエン・ズンに引き継ぎましたが、米軍撤退、南ベトナムに対する最終勝利、そして1975 年の最後の攻勢後の統一を迎えるまで、国防大臣に留まりました。
1978年、カンボジアに侵攻し、中国と同盟を結んでいたクメール・ルージュ政権を打倒した後、1979年の中越戦争で最後の軍事行動を組織しました。その際、中国軍は国境を越えて押し戻されています。
1980年に国防大臣を辞任し、1982年に政治局を去りましたが、1991年まで中央委員会の委員および副首相を務め、2013年に102歳で死去しました。


夫が、私をここに立たせて写真を撮りました。これは記念写真ではなく、我が家でよくやる「人間モノサシ」です。人間をいっしょに撮ることにより、部屋のサイズ感がわかりやすくなります。小さい部屋であるということを伝えたかったようです。


おふたりとも、
こんなに偉大な将軍だったのに、
執務室は狭く、そして簡素でした。


1階部分の見学を終わり、次は地下室へと降りてみます。こちらは入口。


この地下室は、MIYOは4年前に見ているので、
今回は夫だけが降りて行きました。
当時の日記です。
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 102 - ハノイ市内観光② D67作戦司令部とホーチミン博物館(2019年10月11日/41日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


左:階段を降りきったところにある、鉄の扉。原爆による攻撃にも耐えうる構造だったそうです。アメリカは日本に原爆を落としているので、そういう事態も想定していたようです。ちなみに、ソ連の援助で建てられました。
右:その鉄の扉のところに立って、地上の入口を見上げた写真です。

鉄の扉をくぐると、さらにもうひとつの鉄の扉があります。

会議室です。ホー叔父さんの写真が飾られています。

実際の会議風景(1972年2月)。ベトナム戦争真っ盛りの頃です。

情報室です。地下で機密会議が開かれた際、政治局と中央軍事委員会を支援する部隊がここに待機し、本部から指揮部隊や戦闘部隊への情報や支持を送受信するために必要な機材が装備されていました。

毒ガス攻撃を受けた際のフィルターや換気設備も備えていました。

地下壕の見学を終え、夫が出口から出てきました。

D67の見学は、これで終わりです。建物を出ると、正面玄関に、かつて活躍した自動車が展示されていました。

ロシア製GAZ-69です。1968年から1975年まで、D67で機密会議が開かれる際に、上層部のリーダーたちを送迎するために使われました。

UAZ-469。ロシア製の自動車として最も有名なモデルです。GAZ-69の後継として、1973年に製造されました。1973年から1975年まで、会議の際に、上層部のリーダーが使用しました。

それ以降も、ベトナム軍によって長く利用されています。


王宮を壊して砲兵司令部を作った、
フランス軍にはあきれますが、
その同じタンロン城内に、
作戦司令部を置いてしまった、
ベトナム軍にも舌を巻きます。


まあもっとも、
当時はすでにベトナム民主共和国であり、
社会主義の国でしたから、
王室の建造物に対して、
こだわりはなかったのでしょう。


ここまで歩いてきました。


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 49 - タンロン王城遺跡④ 敬天殿の龍の階段とドラゴンハウス(2023年6月18日/5日め)

2023年6月18日 タンロン城・南門(端門)で。


6月18日(日)


タンロン城址に来ています。
かつて、800年にもわたって、
都であり続けたこの地には、
いくつもの王朝の王宮が作られました。
近年になってからは、それぞれの王朝の遺跡が
発掘されるようになったため、
タンロン遺跡と呼ばれることが多くなりました。


地図を見ながら、4番目のスポットになる、
敬天殿へと歩きました。


大きな鐘が吊り下げられています。この鐘の向こう側に行くと…、

煉瓦が敷きつめられた広場がありました。

広場のつきあたりにある、大きな太鼓と亀。この亀は、ブルーサファイヤでできているそうです。

太鼓の右手、奥にあるのが、ドラゴンハウスです。ここにはかつて、タンロン城の中で最も重要な建物とされていた、「キンティエン宮殿」がありました。

在りし日のキンティエン宮殿です。漢字で書くと、敬天宮。つまり4つめのスポットである、「敬天殿」が、かつてこの場所に建っていました。これは1886年、阮王朝時代に撮影された写真です。基礎部分の上に塀がめぐらされていますが、この塀はおそらくフランス軍が築いたものだろうと推測します。(画像をお借りしました)


【キンティエン宮殿(敬天殿)】
ハノイの古代城塞の主要な遺物であり、紫禁城の中心に位置しています。ここは、風水学的に最も重要な場所になっています。キンティエン宮殿の正面南入口には、10段の大きな階段があります。その階段は3等分されており、中央の階段は皇帝専用、両側の階段は王室専用でした。階段には、石造りの大きな龍の像がふたつあり、これが「龍の階段」と呼ばれています。このふたつの龍は、14世紀のレー王朝時代に造られたもので、レー王朝初期の彫刻芸術を代表する、ベトナムの建築および芸術遺産の傑作と言われています。17世紀初頭には、同様の龍の像の別のセットが宮殿の裏側に追加されました。


キンティエン宮殿は、その後、
フランス軍によって取り壊され、
その場所に、フランス軍の
砲兵司令部が建設されました。
その建物は「ドラゴンハウス」という名で、
今もタンロン城址に残されています。
現在では、ここに敬天殿があった名残りは、
古い基礎と、手前にある階段だけです。


中央の階段は皇帝専用、両側の階段は王室専用でした。

階段には、石造りの龍の像がふたつあります。そのため、「龍の階段」と呼ばれています。このふたつの龍は、14世紀のレー王朝時代に彫られました。

この龍は、レー王朝初期の彫刻芸術を代表する、ベトナムの建築および芸術遺産の傑作と言われています。

現在、龍の後ろには、仮設の玉座のようなものが作られていて、フランス軍が建てた「ドラゴンハウス」をすべて覆い隠しています。

こんな感じです。

4年前に撮った写真です。「龍の階段」と、奥に見えているのが「ドラゴンハウス」です。女性のアオザイがすばらしく、思わず撮った写真でした。^^(2019年10月11日)

MIYOが滞在中に、ハノイに遊びに来た兄夫婦と。(背景にドラゴンハウスが見えます。が、現在はここに、宮殿風のテントを設営してあり、後ろのドラゴンハウスは見えないようになっています。やはり、龍の階段の後ろにフランス軍の建築物があるというのは、ベトナムの人々にとってはいまいましいものだったのだろうと思います。)
このときの日記です。
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 101 - ハノイ市内観光① タンロン城址(2019年10月11日/41日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

これは、フランス軍が1886年に撮った「龍の階段」です。10段あるはずの階段の上半分は煉瓦塀で遮断され、5段しか見えません。また、両側の階段は行き止まりで、通り抜けることができません。そして龍のしっぽは、無残にも、煉瓦塀の中に埋め込まれています。(画像をお借りしました)


他国を侵略し、その国の王宮まで破壊するとは、
フランスもひどいことをしたものだ、
…と思うのですが。
(日本も、過去になにもしていないとは言えません。)


そのフランスが作った、美しいハノイ駅は、ベトナム戦争時、米軍の爆撃で、中央部を破壊されました。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間。 5 - ハノイ駅。3つの歴史をくぐり抜けて。(2023年6月15日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


他国から侵略され続け、
100年近くにわたって戦争を続けた、
ベトナムという国。
フランスと戦い続けたあとも、
けっしてあきらめることなく、
最後には、アメリカに勝ってしまった、
ベトナムという国。
その後中国が攻めてきても、
一歩も引かず、中国軍を追い返した、
ベトナムという国。


かつて日本にはできなかったことを、
彼らは彼らなりの方法で、
やり抜いてきました。
すごい国だな、と思います。


けれど、その長い歴史の中で、他国によって、
大切な物を破壊され続けた悲しみは、
この国に来て、注意深く目をこらしてみれば、
今も、街のあちこちで見ることができます。


それにしても暑い。かなりばててきたところに、タイミングよくカフェが見えてきました。MIYOの後ろにある、白っぽい建物です。

Imperial Book Cafe とあります。もう一時間以上、炎天下を歩き続けているので、ここでちょっと休憩することにしました。

アイスベトナムコーヒー(コンデンスミルク入り)を、ふたつ注文しました。店内はエアコンが効いていて、生き返りました。^^

ふたつで80000ドン(約400円)。ここでようやく、500000万ドン札を一枚使用することができました。あとまだ2枚も残っています。😅

このお店でも、ポケベルを渡されました。ポケベルが鳴ったら、カウンターまで自分で取りに行くシステムです。


氷の入ったアイスコーヒーは、
天の救けのようでした。笑
あまりにおいしくて、夢中で飲んでしまい、
コーヒーの写真は撮っておりません。笑


古い門の前で写真を撮る女の子たち。これもレンタル衣装です。いったいどの時代の衣装なのか、もはやわかりません。😅


コーヒーを飲んで元気が出たところで、
ふたたび歩き始めました。


これまでに歩いたところです。


(つづく)