MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは21歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。

盲学校の育児教室で話しました - 聴覚視覚障害児を育てるおかあさんへ ④

2006年11月3日 授業参観。この日は「生活」の時間で、ピザを作りました。始めに手を洗います。
(全盲難聴・のんたん 11歳)


自立に向けて大切にすべきこと(しつけ、身辺自立、学習)


(3) 学習


 これも、身辺自立と同じで、私たちは、あまり教育熱心な親ではなかったと思います。
 長男は、0歳のときから18歳まで、国立T研究所というところの、「盲ろう児」の教育相談で、お世話になりました。ふたりの先生が、18年間ずっと、長男に関わってくださり、保育園や学校、学童など、長男がどこへ進もうと、必ずそこを定期的に訪問し、見守り、助言してくださっていたのは、とても恵まれていたと思います。
 盲ろう教育をきちんと研究しておられる方は、日本ではたいへん少ないのですが、その中心的な存在であるおふたりの先生から、18年にわたって指導していただけたわけですから、たいへんありがたいことでした。
 そのなかで、忘れられない話があります。
 長男がまだ赤ちゃんの頃、「今から、なにかやっておいた方がいいと思うことがあれば、おしえてください。」とお尋ねしたことがありました。そのときに、その、研究所の先生に言われました。
「私は、障害のあるお子さんにたくさんお会いしてきましたが、ひとつ、残念に思うことがあります。成人してから聞いてみると、ほとんどの方がこう言われるのです。『私は、小さい頃から、訓練、訓練、でした。ですから、子どもの頃に、おもいっきり遊んだ記憶がありません。』と。おかあさん、どうぞ、のぞみさんと、いっぱい遊んであげてください。勉強は、あとからでいいのです。」
 そのことばが、私たち夫婦の、その後の子育ての柱になったと思います。
 先生から言われたことを拡大解釈した私たちは、子どもの勉強はそっちのけで、いつも、あちこちへと、家族でおでかけばかりしていたように思います。
 おかげで、点字を覚えるのも、点字タイプを打つのも、クラスのお友達よりもずっと遅かったのですが、なにより、「毎日が楽しい」と思いながら子どもを育てることができたのは、私たち家族にとって、そして長男にとって、とても幸せなことであったと思います。
 勉強も、もちろんたいせつですが、「いつまでに、これをできるようにしなければ」と考えながら、あまり悩まなくても良いのではないか、と思います。
 長男が定期的に通っていたその研究所で、心に残ったできごとがありました。
 同じ盲ろうの、Yくんという男の子がいました。彼は、18歳で盲学校を卒業したときには、点字をマスターするまでにはいたりませんでした。研究所の教育相談も、18歳で終わるはずだったそうです。でも、そのとき、研究所のふたりの先生が、Yくんのおかあさんに、「よろしかったら、これからも研究所にかよって、点字を勉強しませんか」と提案しました。
 こうしてYくんは、高等部を卒業後も、週2回、研究所に通い続けました。そして、研究所の先生が、地道なはたらきかけを積み重ね、何年もかかって、20歳も過ぎてから、Yくんは点字が読めるようになりました。
 このことから私は、「学校に通っているあいだだけが、勉強じゃない。勉強は、一生続けることができるのだ。」ということを教えられました。
 今、長男は、「S園」という施設で生活しています。生活している部屋は、4人部屋です。毎日、午前中は、陶芸や木工などの創作活動を行い、午後は、生活訓練をしています。学校のようなところなので、体育の時間やクラブ活動もあります。まあ、寄宿学校のようなところですね。
 そういう生活を通して、洗濯や掃除など、身の回りのことがひととおり自分でできるようになったら、同じ施設内の個室に移って、生活できるようになります。
 つまり、長男は、学校は卒業しましたけど、今でも毎日、さまざまなお勉強をして、訓練を受けながら、生活しています。最近は、S園で、手話も習い始めたようで、たまに帰宅すると、日付や曜日を手話で見せてくれたりするので、びっくりしてしまいます。以前にはできなかったこと、知らなかったことが、いつのまにかできるようになっているのを目のあたりにするわけで、ほんとうに、生きている限り、勉強なんだなあ、と思います。
 ただ、子どものころも、今でも、親としていちばん大事に思っていることは、「毎日が楽しい」と、長男自身が思える、ということです。勉強を続け、それを楽しいと思えること。それが大切なんじゃないかな、と思います。今、S園で、いきいきと生活している長男を見て、この進路を選んで本当に良かった、と、毎日感謝しています。


 以上で、先生からいただいた、三つのテーマ「自立に向けて大切にすべきこと(しつけ、身辺自立、学習)」についてのお話を終わります。
 最後に、将来に向けて、というお話をしたいと思います。


(つづく)

盲学校の育児教室で話しました - 聴覚視覚障害児を育てるおかあさんへ ③

2006年11月3日 盲学校の教室で。5人のクラス。机が5つだけの、小さな教室です。奥にいるのが、長男と担任のH先生。(全盲難聴・のんたん 11歳)


自立に向けて大切にすべきこと(しつけ、身辺自立、学習)


(2) 身辺自立


 長男は全盲だったので、着替え、食事、など、人がするのを見て、自然に覚える、ということができません。おとなしくいすに座らせておく、ということもさせたことがなかったので、小学校に入ってやっていけるのか、と心配でした。
 ある、有名な発達クリニックに連れて行くと、「きちんと座っていられない子どもは、学校にはいってもやっていけない。まずは、それをしつけないといけない。」と言われました。
 でも、実際に入学してみると、先生方に恵まれ、とてもよい環境で、学校生活をおくることができました。
 そして、入学してから、気がつきました。
 たいせつなのは、「授業中は、おとなしく、いすに座っていること」なのではなく、「今、どうして、座っていなければならないのか」を、本人が理解し、「座りたい気持ちにさせる」ということだった、と。
 小さい頃の長男は、知らない場所に来ると、まず、部屋の中を歩き回り、あちこちさわりました。そうして、ここはどういう場所か、をある程度把握したら、ようやく納得して、いすにおとなしく座るのです。
 ですから、いきなりいすに座らせるのではなく、状況を理解してから、次の行動に入る、というプロセスに配慮することが、盲ろう児には必要なのだな、と思いました。
 家庭では、夜、家に帰り、寝る前に、おふろもごはんも、と、限られた時間で忙しくしていたので、そのプロセスを尊重して子どもに関わっていくことは、難しい面もあったのですが、むしろ学校の先生方のほうが、それについては、よく理解してくださり、じっくりと時間をかけて、長男といっしょにとりくんでいただいたことが多かったと思います。
 ですので、親はあまり熱心にやってなくてお恥ずかしいのですが、着替えや食事などの身辺自立は、学校で時間をかけて、きちんと教えていただいたな、と思っています。家庭はむしろ、学校でおしえていただいたことを復習する場になっていたような気がします。そういう学校生活のなかで、親も、子どもといっしょになって学ばせていただいたと思います。
 あまりいい親ではなかったかもしれませんが、目が見えない子どもの育児書というのは、そう多くないですから、あれもこれもと先走っておしえたいと思っても、できることには限りがあります。それよりも、家では、子どもといっしょに楽しく遊ぶことをいちばん大切にする、というのが、我が家のスタイルだったように思います。


(つづく)


盲学校の育児教室で話しました - 聴覚視覚障害児を育てるおかあさんへ ②

2006年11月3日 盲学校の玄関で。スクールバスから降りたところです。(全盲難聴・のんたん 11歳)


自立に向けて大切にすべきこと(しつけ、身辺自立、学習)


(1) しつけ「コミュニケーションの基礎を築く」


 赤ちゃんの頃の長男は、まったく見えず、聞こえない状態でした。なので、声をかけても反応がなく、あやして笑うようなこともなく、おそらく、自分だけの世界にいるのではないか、と思うような状態でした。
 いくらかでも、ことばのやりとりができるようになれば、また教えられることもでてくるのでしょうが、なにしろ全盲・難聴だったので、始めは、なにをどうおしえることができるのか、もわかりませんでした。
 そんな頃に、いちばんはじめに考えたのは、とりあえず、「これから何が起こるのか」ということだけは、この子に伝えよう、ということでした。
「見えない聞こえない世界」の中でひとりで生きていて、「いきなり、自分の口に何かを入れられる」、「いきなり、服を脱がされる」、または、「外に連れ出される」、のように、わけもわからず、自分のまわりがどんどん、勝手に変わってしまうというのは、かわいそうだな。と思いました。
 少なくとも、「ごはんだよ」とか、「おふろだよ」とかの、「これからなにが起こるのか」くらいは、おしえてあげたい。それが、長男に対するいちばんはじめのアプローチだったかな、と思います。
 そこで考えたのは、「共通の言葉を作る」ということです。「お互いが理解できるものを、共通のことばにする」という方法は、オブジェクトキューなどと言われるようで、ご存知の方も多いかと思います。
 オブジェクトキューで思い出すのは、我が家が親しくしている、ある女のお子さんの話です。その女の子は、ろうで弱視だったので、ことばは聞こえませんが、少しだけ見ることができました。そこでおかあさんは、イトーヨーカドーのハトのマークのカードを作り、「これからスーパーに行こう」と伝えたいときは、そのカードを見せるようにしたそうです。車に乗るときは、車のキーを触らせたそうです。そうすると、やがて、そのお子さんは、スーパーに行きたいと思ったときは、ヨーカドーのカードを持ってきて、おかあさんに見せるようになりました。車ででかけようよ、と言いたいときは、車のキーを持ってきたそうです。つまり、「共通のことばを持つ」と言うことがきっかけとなって、そのお子さんは、自分が望むことを伝えられるようになったんですね。
 子どもが、「自分の思いを相手に伝えたい」と思う気持ちになるように育てていく。そういうコミュニケーションの基礎を築くことは、盲ろうの子どもにとって、生きていくうえでの大きな力になります。そのためには、子どもにわかる形で、情報をつたえ、やりとりしていく、ということの積み重ねが、大切なんだと思います。
 我が家の場合、それは、「歌」でした。一歳ごろの長男は、少しだけ聞こえるようになっていたようで、歌には関心を持っていました。なので、わかってくれるかどうかわからなかったけれど、これから何が起こるか、ということを、いつも、歌でおしえることにしました。「ごはんの歌」「お風呂の歌」「おでかけの歌」などを創作し、ごはんやおふろの前には、必ずその歌を歌うようにして、長男に伝えていました。
 行動だけでなく、人の名前も、歌で伝えました。
 当時の長男には、「誰にでも名前がある」ということが理解できていませんでした。それでも、関わるひとりひとりの人を区別できるようになってほしい、と思ったので、長男と会う人には、あらかじめお願いして、テーマソングを決めてもらっていました。そうして、初めて長男に会ったときに、自分の名前を告げ、そのあとに、「テーマソング」を歌っていただくようにしました。つまり、ひとりひとりが、長男にわかるような、「歌のサイン」を持ったわけです。もちろん、歌が苦手な人もいらっしゃるので、そういう場合は、香水とか時計とか、その方の目印になるものを決めていただきました。
 そんなことを続けているうちに、長男は、その「歌のサイン」に気がついたようです。あるとき、「東京音頭」を名刺がわりに歌った人がいたのですが、数ヵ月後、またその人に会ったとき、長男のほうから、いきなり、「東京音頭」を歌い始めました。何ヶ月もたっているのに、「ああ、以前会ったあの人だ。東京音頭を歌った人だ。」と覚えていたのだ、とわかり、みんなでびっくり。大笑いしました。
 ごはんをきちんと食べるとか、着替えをするとか、あいさつをするとか、しつけというといろいろあると思いますが、そういうことは、あまり親があせっておしえなくても、(先生からは、怒られるかも知れませんが)学校に入ってから、先生といっしょに覚えていってもかまわないのではないかな、と思います。
 それよりも、家庭で、いちばんにやっていただきたいな、と思うのは、「コミュニケーションの基礎を築く」ということです。見えなくても、聞こえなくても、こうすれば子どもとやりとりができる、という方法、つまり、「共通のことば」を、親子で築いていく、というのが、家族のいちばんおおきな役割ではないかと。
 盲ろう児というのは、暗くて音のない世界に、たったひとりで閉じ込められているようなものです。ですから、「なんでも、周りの人がすべて教えくれる。」と言う雰囲気で育てられてしまう可能性があります。そういうことを続けていると、やがて、「言われたことにしたがっていればいいのだ。」とか、「教えられることをきくしかないんだ。」と言う、指示待ちの子どもになっていく可能性があります。その結果、子どもが、自分で考えるのをやめてしまうおそれもあります。
 子どもが小さい頃に、私が教わったことで、今でも印象に残っているのは、「触らせるときの手」に注意する、ということです。「目が見えないから」と、大人は、なんにでも触らせようとします。普通は、子どもの手を上から持って、触らせたいもののところにもって行き、触らせます。でも、「これはよくないですよ」と言われました。子どもが、触りたくても、触りたくなくても、いきなり手をつかまれて、なにかを強引に触るように仕向けられる。これには、子どもの意思がないんですね。「これはなんだろう?」という気持ちがあって、こどもが自分から触る、ということではないわけです。
 これを繰り返していると、そのこどもは、「自分の意思に関わりなく、大人は自分の手を物に持っていくのだ」と思い始めます。そして、他人からそうされることが当たり前になっていくと、今度は、「自分から手を出す」ということをやめてしまうそうです。つまり、自分から物に触ろうとしなくなるわけですね。
 では、どうすればよかったのでしょうか。
 答えは、子どもの手の持ち方にあります。普通は、子どもの手を上から持つのですが、目が見えない子どもに物を触らせるときには、自分の手のひらに子どもの手を置いて、触らせたいもののところまで導いていくわけです。こうすると、「今はさわりたくない」と、子どもが思ったとき、その子には、「自分の手を引っ込める」という自由があります。「強引に、大人に触らせられる」のではなく、「触るかどうかを、決めるのは自分」ということです。そういうところから、子どもの、「自分はこうしたい。」または、「したくない。」という気持ちを大切にしていくのだ、と教わりました。
 子どもに対して、「ひとりではないよ」「世の中にはたくさんの人がいて、関わりあっているんだよ」「いろんなことを、いっぱいおしえてあげるよ」と伝え、子どもの内面から、「自分のしたいこと、欲しいものを、相手に伝えたい。」と思う気持ちを引き出していく、つまり、「子どもが自分で考え、発信していく力」を、いっしょにはぐくんでいく。盲ろうの子どもの場合、そういうことが、なによりたいせつなのではないかと思います。


(つづく)

盲学校の育児教室で話しました - 聴覚視覚障害児を育てるおかあさんへ ①

2006年10月14日 おもちゃに耳をくっつけて、音を聞いています。(全盲難聴・のんたん 11歳)


11月29日


かつて長男が通学していたK盲学校からお声をかけていただき、
幼稚部の育児教室で、「先輩おかあさんの体験談」をお話してきました。
長男は、この学校の小学部と中学部でお世話になりましたが、
卒業して、もう10年になります。
駅から学校まで続く、なつかしい道を歩きながら、
幼い長男の手をひいて、いっしょに歩いた日々が思い出されました。


今回お声をかけてくださったのは、
長男が小学二年生のときの担任をしていただいた、M先生。
テーマは、
「視覚および聴覚に障害のあるお子さんを育てている
 先輩保護者の体験談より、育児を考える」

というものです。


20年以上も前の長男を思い出しながら、
お話させていただきました。
原稿が残っておりますので、ここに、掲載いたします。
(長いので、連載にします。)



 まずは自己紹介をかねて、私の家族構成を申し上げます。
 私、夫、長男(22歳・S園)、長女(22歳・大学4年)の4人家族です。
 私も夫も、普通の会社員です。
 長男は、超未熟児の双子として生まれ、未熟児網膜症を発症し、全盲になりました。その後、難聴であることがわかりました。つまり、全盲・難聴の盲ろう児です。盲学校高等部を卒業後、社会福祉法人S園に入所して、4年になります。現在は、経済的にも自立しています。
 長女は、生まれたときは慢性肺疾患で、病弱でしたが、現在は健康です。就職も内定し、来春から社会人となります。
 私は、子ども達が1歳になった日から職場復帰し、以来ずっと、ボランティアさんやヘルパーさんに助けられながら子育てし、現在も、仕事を続けています。


どんな子育てをしてきたか。


 私たちの子育てをひとことで言うと、「周りの人を巻き込んだ育児だった」ということになると思います。
 そのことについて、お話していきます。
 私が仕事をしていたので、長男は、はじめは、保育園でお世話になり、小学校入学からは、学童保育にお世話になり、毎日の送り迎えや放課後活動のすべてを、ボランティアさんに助けられてきました。私も夫も、両親が地方に住んでいて頼りにできなかったのですが、「遠くの親戚より近くの他人」ということばそのままに、多くの方々に助けられた育児でした。
 学校に通った12年間で、のべ、数千人ものボランティアさんにお世話になってきたと思います。
 仕事との両立はたいへんでしたが、いらしてくださる方々がいい方ばかりだったので、子ども達にとっては、良い、育ちの環境を作ってあげられたのではないかと思っています。
 ですから、私たちの経験をもとに、ひとつだけ言えるとしたら、
「子育ては、自分ひとりでがんばらない。できるだけたくさんの人を巻き込んで育てる。」
ということかな、と思います。
 たくさんの方々を巻き込んだことで、どんないい点があったかというと、


 子どもが、親だけに頼ることなく、人見知りをしない子どもになりました。
 また、他者に信頼をよせる、おおらかな子どもになりました。


 …のように、思います。
 学校を卒業し、S園に入所してからも、多くのボランティアさんとのおつきあいを続けていただいています。
 長男がお世話になったヘルパーさんと長女は、今でも、年に数回会って、いっしょに食事をしております。
 長男は、月に数回、S園から外出して、都内のウクレレ教室に通っているのですが、その送り迎えは、いまでも、ボランティアさんがかけつけてくださっています。小学一年生の頃から、16年のおつきあいになる方もいます。
 私たち両親以外に、長男のことを知っている人がたくさんいて、みんなが、長男の成長をいっしょになって喜んでくれたおかげで、私は孤独な育児をしなくてすんだように思います。また、たくさんの方に触れ合いながら育つということは、のぞみにとっても、とてもよいことであったと思っています。


 現在の我が家は、もう子育ても終わり、日々、のんきに楽しく過ごしております。が、当時、働きながら、家事も育児も、そのうえ療育も、というのは、やはりたいへんなことの連続でした。
 それをどんなふうに乗り切ってきたか、お話したいと思うことは、たくさん、たくさんあるのですが、その中で、今回、「お話してください。」と、テーマとしていただいているのは、


自立に向けて大切にすべきこと(しつけ、身辺自立、学習)


ですので、今日はこれを軸にして、お話していこうと思います。


(つづく)

もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ⑨

2006年10月14日 運動会で。お弁当の時間。(全盲難聴・のんたん 11歳)



往く年と共に


  のぞみの手術も無事に終わり、12月上旬、退院の運びとなった。
  それまではあたりまえのことのように思っていた、保育所と自宅、会社の往復の日々が、また始まった。そのあたりまえの繰り返しが、なによりも幸せなことに思えた。たとえ何が起ころうと、私がのぞみを受けとめるのだと決めてから、のぞみは私にとってこれまで以上にいとおしい存在になっていた。
  穏やかな生活の中でも、日々は流れるように過ぎていき、その年もおしつまった、大晦日になった。私には、新しい年を迎える前に、どうしてもしておきたいことがあった。
  それは、田中先生へのお見舞いだった。田中先生の方から病気や病院についてなにも話されないのは、話したくない事情があったのだろうし、今は退院されているのかどうかもわからない。けれども、病の床にある先生に、私はのぞみの手術についての手紙を出してしまったのだ。先生にご心配をおかけした以上、のぞみが無事に退院したことも報告しなければならないと、私は思っていた。
  大晦日の夜、私たち一家は、ささやかなお見舞いの品を持って、ひまわり施療院の門をくぐった。最後にお目にかかったあの夏の日から5ヶ月もたっていることが、うそのようだった。
  たとえ先生がまだ入院中であっても、のぞみのことだけでもお伝えできればいいと思っていたのだが、玄関で来意を告げると、応対されたご主人は、
「退院してるんですよ。今呼んできます。」
と、私たちが止めるのもかまわず二階に上がってしまわれた。
  おそらく田中先生は、わざわざ服を着替えられたのではないだろうか。私たちはしばらく玄関で待たされた。その広い玄関のすみには、車いすが置いてあった。先生が使っておられるのだろうか。やがて、支度を終えて二階からゆっくりとした足取りで降りてこられた先生は、驚くほどに痩せて、小さくなっていた。
  私は、先生に近況を手短かに報告して失礼しようとした。けれども先生は、私が抱いていたのぞみを受け取り、玄関に腰をおろした姿勢でのぞみを抱いたまま、動こうとはしなかった。
  こんなからだなのに、先生はのぞみに気を送ろうとしているのだ、と私は気がついた。
「先生、もうけっこうです。もう、十分です。」
  私はそう言ってのぞみを受け取ろうとしたが、先生はやめようとはしなかった。そして、
「おかげさまで、もうずいぶんいいのよ。近所なら買い物にも行けるようになったんだから。」
と笑顔を見せてくれた。
  あまり長居をしては、先生がお疲れになるだろうからと、私たちは早々に施療院をあとにした。
  門の外に出てから、私はもういちど振り返り、かつては「ひまわり施療院」と小さな札がかけられていた玄関を見つめた。二年近くにわたって、毎週のように、ときには数日おきに、ここに通い続けたのだ。それが、何年も前のことのように思えた。


(つづく)