MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 41 - 北海道開拓の村⑬(旧開拓使札幌本庁舎、旧田村家北誠館蚕種製造所)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧田村家北誠館蚕種製造所で。(北海道札幌市)


11月6日(土)


白とピンクの色合いが美しい、旧浦河支庁庁舎。

その窓から見えた、美しい建物が…、

旧開拓使札幌本庁舎です。息をのむような美しさです。


【旧開拓使札幌本庁舎】
1869年(明治2年)、明治新政府は、草原と林におおわれた原野であった札幌を、北海道の政治の中心地とすることに決めました。新しいまちづくりのなかで、役所や学校、お雇い外国人教師の官舎などには西洋風の建築スタイルがとり入れられたため、札幌中心部はアメリカ東部の都市のような雰囲気になっていきました。そのシンボル的な建物として1873年(明治6年)に完成したのが、開拓使札幌本庁舎です。

建築された場所は、赤レンガ庁舎の名で親しまれている旧北海道庁本庁舎の北側でした。建築にあたっては、開拓使顧問ケプロンの構想に基づき、開拓使工業局営繕課が担当しました。建築の5年後に火災のため焼失しましたが、開拓の村では、建築当時の本庁舎を再現してあります。
現在、建物の内部には、総合案内・情報サービスコーナー、講堂、研修室があり、見学の事前事後の学習・休憩などに活用されています。


旧開拓使札幌本庁舎は、開拓の村の中でも、
ひときわ目をひく美しさでした。
残念ながら、このときは工事中で、
中に入ることができませんでした。
悔しいので(笑)、
夫があっちこっちウロウロして、
撮りまくった外観写真を、
一挙にご紹介します。笑



これで、馬車鉄道が敷かれているメインストリートの両側にある建物は、すべて見学し終わりました。市街地群エリアには、このほかにもまだ道路が2本あり、そこにも多数の家屋が建っているのですが、とりあえずここで一区切りとします。ここからは、市街地群エリアを出て、再び、山村群エリアに入っていくことにしました。


ということで、
舞台は山村群エリアに移ります。
…といいたいところなのですが、
実はずっと気になっていることがあります。


地図の右上、農村群エリアに、
 旧田村家北誠館蚕種製造所
 旧農商務省滝川種羊場機械庫

があるのですが、
私の記憶違いから、
この2か所を掲載しそこなってしまい、
そのままどんどん歩を進めてしまいました。


実はこの2か所は、農村群エリアに着いてから、
いちばん初めに行った場所でして、
そこから下へ下へと移動しながら、
見学を進めて行ったわけです。


順番が前後してしまいましたが、
市街地群エリアが一段落したのを機に、
ここで、この二つをご紹介したいと思います。
(ややこしくてスミマセン。)


馬車鉄道に乗って、舞台は再び農村群エリアに変わります。笑

終点に到着。

ここで、まずは旧ソーケシュオマベツ駅逓所に行き…、

つづいて旧岩間家農家住宅へ。岩間家は仙台藩の士族移民団として入植したため、家屋は仙台の建築様式で建てられたそうです。

そしてこのあとに、旧田村家北誠館蚕種製造所へと行ったんですね…。😅 左右に細長く伸びた建物でした。

正面玄関です。


【旧田村家北誠館蚕種製造所】
絹(糸)の原料になる蚕の卵(蚕種)をとる建物です。樺戸郡浦臼村で、養蚕伝習所の教師であった田村忠誠が、1901年(明治34年)から1905年(明治38年)にかけて建築しました。当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考としたそうです。この製造所では、蚕種の製造販売を行うかたわら、多くの養蚕技術者を養成しました。


それでは、中に入ります。

内部には、通路に沿っていくつもの部屋があり、養蚕の作業風景が再現されていました。

蚕に食べさせるための桑を刻んでいるところです。

大きく育った蚕が見えます。

繭から生糸をとる作業です。

靴を脱いであがり、さらに奥へ奥へと進むと…、

そこには、たくさんの蚕棚が広がっていました。

いちばん奥の土間には、養蚕に関わる資料がたくさん展示されていて、さながら博物館のようでした。(そもそも開拓の村自体が、「野外博物館」という位置づけなのですが。笑)


何年も前に訪れた、
富岡製糸工場を思い出しました。
世界遺産となって一躍脚光をあびましたが、
このような蚕種製造所は、
製糸工場よりもさらに前の工程、
ということになります。
当時、日本の一大産業であった製糸業は、
このような蚕種製造所に支えられていた
ということを、初めて知りました。


日本の近代産業の礎となった、蚕種製造所。
その記録を今に伝える建物が、現在もひっそりと、
開拓の村に残されていました。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 40 - 北海道開拓の村⑫(旧開拓使工業局庁舎、旧小樽新聞社、旧浦河支庁庁舎)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・馬車鉄道で働く道産子、オウラです。(北海道札幌市)


戻りました。またよろしくお願いいたします。
今回は、旧開拓使工業局庁舎、旧小樽新聞社、旧浦河支庁庁舎を訪ねます。


11月6日(土)


旧札幌警察署南一条巡査派出所を出て、
旧開拓使工業局庁舎に向かって歩きました。


旧開拓使工業局庁舎です。


【旧開拓使工業局庁舎】
1873年(明治6年)に設置された開拓使工業局は、道路・橋梁・官庁・学校などの施設をはじめ、家財、機械・農具・車両などの製造事業を行い、北海道の発展に大きな業績を残しました。この建物は1877年(明治10年)に札幌市街中心部に建設されたもので、明治初期の洋風事務所建築の特徴を示し、開拓使関係庁舎としては現存する唯一のものです。

建築にあたり、工業局営繕課は、米国から輸入した建築雛形書を参照しながら洋風建築を習得していきました。この建物では、通り抜けの玄関ホール兼階段室をもつ平面構成や、屋根の棟飾り、ポーチの破風飾り、軒下の持送りなどに、米国建築書を参照したことが確認されています。旧開拓使工業局庁舎は、明治初期の北海道開拓を支えた同局工作場の現存唯一の遺構であるとともに、工業局営繕課の設計業務の実態を示す建物として、歴史的に高い価値が認められます。(国指定重要文化財)


屋根の棟飾りやポーチの破風飾りが美しい建物です。

内部には、当時の製造業に関する様々な物品が展示されていました。当時の鮭の缶詰とラベルです。「さけすづけ」「ます」と書いてあります。

ちなみにこれは、加賀橋立の蔵六園で見た、日本第一号のかに缶。樺太工場で製造したそうです。これに比べると、ずいぶん洗練されています。(2020年7月26日)


開拓使物産局麦酒製造所の写真です。

麦酒樽と…、

麦酒商標です。

木製の荷車。馬につないで運んだのでしょうか。

旧小樽新聞社です。旧開拓使工業局庁舎の隣りにあります。


【旧小樽新聞社】
小樽新聞社は、1894年(明治27年) に創立され、函館毎日新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞の一つでした。この建物は、1909年(明治42年)の建築です。木造の骨組みで、外壁には札幌近郊で産出する札幌軟石(溶結凝灰岩)を積み上げた構造で、明治期石造建築の特徴を示しています。


たくさんの活字が残されていました。

手動の輪転機のようです。

そして、旧小樽新聞社の隣りにある、旧浦河支庁庁舎です。ようやく、通りのいちばん端まで戻りました。


【旧浦河支庁庁舎】
1897年(明治30年)、北海道庁が郡区役所を廃止し支庁制度を設けた結果、浦河郡に浦河支庁が置かれました。この建物は、1919年(大正8年)に当時の浦河村および道庁の費用で建築され、1932年(昭和7年)、日高支庁と改称されました。1956年(昭和31年)、浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館として利用されました。


外観は白とピンクの色合いで、玄関ポーチも優し気な雰囲気です。

支庁長室です。

2階に上がってみます。内部も、白とピンクでかわいらしい色合いです。^^

迎賓馬者です。


【迎賓馬車】
北海道で迎賓馬車が使用されたのは明治20年代からで、使用者も、官庁や牧場主に限られていました。ここに展示されている馬車は、1906年(明治39年)から、札幌の鉄道作業極北海道出張所で使用されていたものです。その後、1921年(大正10年)に王子製紙江別工場が購入し、昭和20年代まで、工場長や事務長の公務、来客の送迎に使用されていました。


特設展示ということで、代表的な照明器具や暖房器具が展示されていました。北海道開拓の村では、各建造物の内部において、それぞれの所在地と年代に応じた照明や暖房を再現しているそうです。

支庁舎だけに、壁にはこんなものが貼ってありました。

窓の向こうには、今訪れたばかりの旧開拓使工業局庁舎と旧小樽新聞社が見えます。

そして反対側の窓からは、美しいフォルムの建築物が見えました。旧開拓使札幌本庁舎です。


次回は、旧開拓使札幌本庁舎の
全景をご紹介します。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 39 - 北海道開拓の村⑪(旧山本理髪店、旧島歌郵便局、旧札幌警察署南一条巡査派出所) / 銀座「ももてなし家」で、再びキャンペーン中。(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧山本理髪店で。(北海道札幌市)


*4月9日からお休みいたします。


今回は、理髪店、郵便局、派出所を訪ねます。


11月6日(土)


引き続き、市街地エリアを歩きます。
メインストリートの反対側、
旧渡辺商店の隣りにある、
旧山本理髪店です。


旧山本理髪店。右側に見えるのは、前回ご紹介した、旧渡辺商店と旧浦河公会会堂です。

ゴールデンカムイ第87話でも、こんなふうに描かれています。(画像をお借りしました)


【旧山本理髪店】
傾斜の急な切妻屋根、玄関の雨よけアーチなど、大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観です。北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として、札幌で長く親しまれてきました。

大正末期、電気やガスは高価であったため、多くの店では、炭火を利用して湯を沸かしたりタオルを蒸していました。炭火と水を絶やさないよう、天主は常に気を付ける必要がありました。また、この頃から、理容椅子は木製4本足のものから金属製の台のついた回転椅子に変わっていきました。
平成25年、全国理容連合会より、理容遺産に認定されました。


店内のようすです。これはMIYOが撮りました。小学生の頃、こんな散髪屋さんで髪を切ってもらったことがあります。もう50年以上も前なんですね。笑

いっしょに撮っているのですが、夫が撮る写真はいつも、私のよりも被写体に近いです。笑

当時のスタイル見本。ここから選んでいたのでしょうか。


つづいて、旧島歌郵便局です。


MIYOが通っていた小学校も、こんな感じの木造校舎でした。笑

この郵便局も、ゴールデンカムイ第118話で登場します。そっくりですね。^^(画像をお借りしました)

右側が郵便局の窓口で、左側は通用口です。


【旧島歌郵便局】
この建物は1902年(明治35年)に、郵便局機能のために建てられたもので、局長や職員の住居は別棟でした。
北海道で近代郵便の取り扱いが始まるのは1872年(明治5年)で、島歌(久遠郡せたな町)には、1886年(明治19年)に郵便局が設置されました。1893年(明治26年)には、畑野清治が2代目局長として就任し、業務を取り扱いました。以後この局は、畑野家によって引き継がれてきました。明治末期の島歌地域は、鰊漁や昆布の生産などで活況を呈していたため、郵便物の取り扱いが多く、局長をはじめ、事務雇員3人、集配人2人、逓送人2人が働いていました。


利用者が雨に濡れないように、破風のあるポーチが設けてあります。

郵便局の窓口の内側です。カウンター越しに取り付けられた格子窓のうち、下段のガラスだけが横にスライドするように設計されていて、そこから郵便の受け渡しを行っていました。

建物の左側には、こんな部屋がありました。職員の詰め所だったようです。

配達時に使用した装具のようです。

隣りに、かわいらしい建物が見えたので、行ってみます。

 旧札幌警察署南一条巡査派出所です。


【旧札幌警察署南一条巡査派出所】
1911年(明治44年)に建てられました。それよりも前、札幌創成橋の脇に最初に交番が建てられたのは1885年(明治18年)でした。木造で、札幌創成橋交番所と呼ばれていた。同じ木造で一度改築されたが、その後個人の篤志による寄付で建てかえられたのがこの建物です。壁のレンガは、小口面と長手面を交互に表して積むイギリス積み手法を用いています。
南一条交番は、1972年、冬季オリンピック開催による道路の拡幅工事に伴って移転するまで、「赤レンガ鋼板」と呼ばれて市民に親しまれ、町の治安を守ってきました。


内部は奥行きがあり、取調室と事務室に分かれています。

入ってすぐの事務室では、巡査が調書を書いているようすを展示しています。ドアの向こうには取調室があります。

次回は、旧開拓使工業局庁舎を訪ねます。


(つづく)


(おまけのお話)


ふたたび、とっとり・おかやま新橋館
のお話です。
ここは、鳥取県と岡山県のアンテナショップです。


2階のビストロカフェ「ももてなし家」で、500円のお弁当をふたつ買ったところ、1000円分の割引券をもらってしまったお話を、以前の日記で書きました。


コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 25 - 旧永山武四郎邸 / 銀座「ももてなし家」で、500円のお弁当。(2021年11月5日/3日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


この割引券、3月中旬まで有効とのことで、
締め切りぎりぎりでしたが、
なんとか使うことができました。


大山ハーブチキンの焼き鳥丼(800円)と日生牡蠣の卵とじ丼(800円)です。(2022年3月10日)


合計1600円ですが、割引券を使って、
実質600円になりました。
持ち帰っている間に型くずれしていますが、
おいしくいただきました。


キャンペーンは終わってしまったのですが、
昨日、歯科通院のついでに、
とっとり・おかやま新橋館に行ったところ、
再び、同じキャンペーンが始まっていました!笑


1000円購入ごとに、500円の割引券がもらえます。8月31日までのキャンペーンです。

鳥取・岡山の素材を使ったご当地グルメが、こんなにたくさんあります。

それならば…ということで、
またも買ってしまいました。


新メニューのえびめし丼(500円)と日生牡蠣の卵とじ丼(800円)です。(2022年4月5日)


牡蠣の卵とじ丼があまりにおいしかったので、
リピートです。^^
えびめし丼は、海老の旨味が効いた、
カレー味の炒飯でした。
おいしかったです。^^


ふたつで1300円だったので、割引券を一枚いただきました。^^

1階のとっとり・おかやま新橋館では、鳥取と岡山のベーカリーフェアを開催中です。夕方だったので、半額でゲットできました。


「究極の食パン」と言われる、
TREES BREADのレーズン食パン(540円→270円)と
白バラ牛乳ロール(150円→75円)
を買いました。


夫が、「次は穴子の炊き込み丼を食べたい」
と言うので、また行こうと思います。
もちろん、夕方をねらって行くつもりです。笑

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 38 - 北海道開拓の村⑩(旧本庄鉄工場、旧浦河公会会堂、旧渡辺商店)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧浦河公会会堂で。(北海道札幌市)


今回は、鉄工場、礼拝堂、雑貨店を訪ねます。


11月6日(水)


旧藤原車橇製作所の井戸を通り過ぎると、
旧本庄鉄工場があります。


旧本庄鉄工場


【旧本庄鉄工場】
本庄鉄工場は、石狩市で、明治30年から2代にわたって営業していました。石狩川河口にひらけた旧市街にあって、漁具や漁船の付属品のほか、農具などを作りました。この建物は、本庄鉄工場の仕事場として、1925年(大正14年)から昭和50年代まで使用されていたものです。開拓地に欠かせなかった鍛冶屋のようすがしのばれる建物です。

1925年(大正14年)、この鉄工場には、親方と13人の家族、そして小学校を出たばかりの弟子がひとり、暮らしていました。春先には農具を、夏から秋にかけては、石狩川河口での鮭刺網漁に使う錨(いかり)や和船の船釘を、家族も手伝いながら製造しました。火床の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造作業を繰り返す鍛冶職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事でした。ここでは、鮭漁期を迎える時期の鍛冶屋のようすを再現しています。


入口を入ると、まずは広い鍛冶場になります。

当時は、できあがったばかりの、ピカピカの錨や農具が並んでいたことでしょう。

鍛冶場の奥には、和室が4部屋ありました。右端の部屋で食事をしたようです。

10畳の広い部屋です。囲炉裏を囲んで15人が食事したら、にぎやかだったことでしょう。


これで、メインストリートの右側の建物は、
すべて見学を終えました。
つづいて、同じ通りの反対側にある、
旧浦河公会会堂に入ってみました。


旧浦河公会会堂


【旧浦河公会会堂】
旧浦河組合基督教会として、1894年(明治27年)、浦河郡荻伏村(現在の浦河町)に建築されました。木造平屋建て、一部2階の建物です。北海道開拓を目的に設立された赤心社の礼拝・集会所でした。赤心社は、1880年(明治13年)に神戸で設立され、翌年から荻伏村に入植を開始しています。赤心社の指導者の多くがキリスト教徒であったため、1886年(明治19年)に浦河公会が組織されました。


ランプの形が優雅ですね。現在でも、ここで結婚式を行うことができるそうです。

旧浦河公会会堂を出たら、通りの向こうから鉄道馬車がやってきました。^^ 馬車の向こう側には、これまでに見て来た建物が並んでいます。左から、旧藤原車橇製作所、旧太田装蹄所、旧大石三省堂支店、そして旧武岡商店…。さらに、旧近藤医院、旧武井商店酒造部、三〼河本そば屋と続き、いちばん奥に見えているのは、旧来正旅館。すばらしい眺めでした。

引き馬のオウラは道産子。健気に仕事しています。

ゆったりと、私たちの前を通り過ぎ…、

旧ソーケシュオマベツ駅逓所へと移動していきました。


見学を続けます。
次は、旧浦河公会会堂のとなりにある、
旧渡辺商店です。


旧渡辺商店


【旧渡辺商店】
枝幸郡中頓別(なかとんべつ)に建てられた雑貨店です。中頓別は、明治30年代に砂金掘りでにぎわい、1916年(大正5年)の鉄道開通後は、交通の要所として発展しました。漆喰仕上げの土蔵造りは、石造やレンガ造とともに耐火・耐寒を目的とした構造です。が、北海道ではあまり例がない建物です。

この建物では、1階が店舗、2階が座敷として使用され、店主の住宅と商品の倉庫は別棟となっていました。


店内には、台所用品や子どものおもちゃなど、多岐にわたるものが並べられていました。

上から吊るしてあるのは、ザルやすりこぎなどの生活用品。

その下には、尋常小学校の教科書が並んでいました。大正末期の新学期を控えた時期の、店舗のようすを再現しているそうです。当時の雑貨店では、日用品などのほか、書籍や教科書などを取り扱うところもありました。

床をご覧ください。奥の扉からレールが延びているのがわかりますでしょうか。このレールを使って、トロッコで倉庫の商品を出し入れしていたそうです。

倉庫の商品を出し入れするのにトロッコが必要なくらいに、お店がはやっていたということですね。^^

左に見えているのが、倉庫です。

市街地エリアで、鉄道馬車が走るメインストリートの右側の見学が終わりました。次は、来た道を戻りながら、メインストリート左側の建物を見て歩きます。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 37 - 北海道開拓の村⑨(旧大石三省堂支店、旧太田装蹄所、旧藤原車橇製作所)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧田村家北誠館蚕種製造所で。(北海道札幌市)


中断していた、「北海道開拓の村」日記を再開いたします。
「市街地エリア」で、ひとつひとつの店舗や作業場を訪ねています。
今回は、お菓子屋さん、蹄鉄屋さん、ソリ屋さんです。


11月6日(土)


市街地エリアでは、通りに沿って、
いくつもの店舗や家屋が建ち並んでいます。
その通りの右側をまっすぐに進みながら、
順番に、建物をご紹介しています。
ここで気になるのが、通りの左側です。


通りの左側にも、このとおり、たくさんの建物が並んでいます。


すごいでしょう?笑
市街地エリアでは、ほんとうに、
ひとつの町ができあがっているのです。


こういう建物を見ていると、
つい、入ってみたくなるのですが、
はじめに、多動夫には、
「見学するのは通りの右側だけ。
 絶対に、左側には入らないこと。」
と、固く言い聞かせてありました。


もうね。
これだけたくさんの建物が並ぶ中、
右に左に、ジグザグに歩いた日には、
どこまで見学したのか、
わけがわからなくなりますよ、絶対。笑


なので、まずは、通りの右側に並ぶ建物を、
順に見て歩こうという段取りです。
もちろんそのあとは、
左側に並ぶ家々を見学する予定です。
…なのですが、
見学スポットが多すぎるんですよね…。😅
はたして、
今日一日で全部見ることができるのか、
だんだん微妙になってきました。


とりあえず、次の店舗を見学します。


旧大石三省堂支店です。


【旧大石三省堂支店】
菓子職人の家に生まれた大石泰三が、札幌で菓子製造の技術を習得したあと、1925年(大正14年)に、帯広町の繁華街電信通りにこの店舗を求め、菓子の製造販売を始めました。この店は、親子二代にわたり、昭和30年まで続きました。店舗兼住宅の母屋とそれに併設する工場とを再現しています。


中に入ると、ガラスケースやガラス瓶に入れられて、たくさんのお菓子が並んでいました。見ているだけでうれしくなります。^^

ブリキのお菓子入れですよ。^^

私が小さい頃は、結婚式の引出物に、こういうお菓子が必ず入っていました。

そしてこれはタイヤキですね。^^

家の中を歩いてみます。

いちばん奥は、菓子を作る工場になっています。

お菓子を作る木型です。

焼き型もたくさんありました。^^


市街地に並ぶ家屋は、一軒一軒、
生業(なりわい)ごとの特色があって、
どこに入っても、とても楽しく見学できました。^^
次は、旧太田装蹄所です。


旧太田装蹄所


【旧太田装蹄所】
1924年(大正13年)から1945年(昭和20年)まで、札幌市街の江別方面に通じる幹線道路(今の国道12号)沿いで営業していた装蹄所を再現しました。蹄鉄屋の名で親しまれていた装蹄所は、馬が物資運搬や農耕の主役であった時代にはどこの町や村にもみられ、馬蹄の保護には欠かせない職種でした。


入口を入るとすぐに、仕事場があります。(画像をお借りしました)

仕事場の奥に、家族の住まいがありました。

旧藤原車橇(しゃそり)製作所です。

屋根の上に、車橇と車輪を飾ってあります。これが看板代わり。^^


【旧藤原車橇(しゃそり)製作所】
兵庫県出身の宮大工・藤原信吉が、車橇(そり)製造のために作った工場兼住宅です。信吉は、1898年(明治31年)、深川に入植し、1903年(明治36年)には雨竜郡妹背牛町で車橇製造を開業しています。以後、3代にわたり営業を続けました。この建物は、開業以来使われてきた車橇製作所を再現したものです。作業場と住宅から成り、木造切妻平入りの構造です。


この作業場では、1903年(明治36年)から1963年(昭和38年)まで、車橇が製作されました。写真は、馬橇の柴巻作業を行っているところです。

金輪馬車の車輪の組み立て作業を行っています。

釜に蒸籠を載せてあります。これは、柴木をふかす道具でした。

柴巻馬橇の台木の鼻曲げ作業を行っています。

鍛冶場が設けられたのは、開業から5年後。1908年(明治41年)のことでした。


【北海道の車橇】
明治のはじめ、本州から入植した人たちが北海道で生活を始める前に、ロシアで、寒冷地での生活を調査したそうです。その際、馬車や雪上ソリを使っているのを見たことから、広大で雪の多い北海道での交通・輸送に適しているだろうと考えました。そして、ロシアから馬車とそりを持ち帰り、日本で作ってみたのですが、木を曲げる作業がうまくいかなかったそうです。そこで、ロシアから職人を呼び、作り方を学びます。こうして、北海道のソリは、ロシアのソリをもとに改良を加え、北海道にあったものへと変化していきました。


別棟もある、広い製作所でした。当時の北海道では、ソリがなくてはならないものであり、とても繁盛していたことがうかがえました。

次は、通りの右側でいちばん最後にある、旧本庄鉄工場に行きます。


(つづく)