MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもミツマタ。妖精が舞い降りる森と笠間稲荷神社を訪ねて 2 - 笠間稲荷神社①(手水舎、絵馬殿、楼門)(2022年3月20日)

2022年3月20日 笠間稲荷神社・拝殿で。(茨城県笠間市)


3月20日


門前通りで少し遊んだあと、ようやく、
笠間稲荷神社の鳥居をくぐり、
境内に入りました。



【笠間稲荷神社】
飛鳥時代にあたる、651年(白雉2年)創建の大社です。五穀豊穣、商売繁盛などのご利益を求め、年間350万人以上の参拝客が訪れる稲荷神社で、京都の伏見稲荷、佐賀の祐徳稲荷と並ぶ日本三大稲荷のひとつとされています。


鳥居をくぐると、両側を、神使の白い狐が守っていました。

狐像の下には、小さなキツネさんがいっぱい。かわいい。^^

狐像を過ぎると両側に仲見世があり、お土産物や縁起物を販売するお店や屋台が並んでいました。

お面はやっぱり、お稲荷さんが多いですね。笑

あっ 入り口のキツネ像の足元にあった、小さなキツネさんたちです。これはおみくじでした。中におみくじが入っていて、おみくじを読んだあと、キツネさんを像の下に置いていく人が多いのだそうです。おみくじもペイペイで買えるというところが笑えます。🤣🤣

アマビエのおみくじに…、

まねきねこやタヌキも…。なぜタヌキ?笑

やはりここでも、お稲荷さんが並んでいました。

手水舎です。

軒の部分に、すばらしい彫刻が施されていました。

明治32年に建てられた、絵馬殿です。間口六間、奥行き三間、入母屋瓦葺で柱14本の吹き抜け造りです。

中は、奉納された大絵馬や奉納額でいっぱいでした。

そして、重層入母屋造の立派な楼門をくぐります。これは、MIYOが撮った写真です。

そしてこれは、夫が撮った写真。夫が撮る写真は、なぜかいつも、私より少しだけ、被写体に近づいています。笑

楼門は、「萬世泰平門」とも言い、重層入母屋造で昭和36年に竣工しました。写真では小さくて見えにくいのですが、扁額の「萬世泰平門」は、当時の神宮祭主、北白川房子の染筆によるものだそうです。


このあとさらに、拝殿、御本殿へと歩きます。


(つづく)

コロナでもミツマタ。妖精が舞い降りる森と笠間稲荷神社を訪ねて 1 - 笠間神社の門前通りを歩く。(2022年3月20日)

2022年3月20日 笠間稲荷神社で。(茨城県笠間市)


長野から戻りました。
梅の花にはまだ少し早かったけれど、その代わりに、たくさんの福寿草が迎えてくれました。
鹿教湯温泉から別所温泉へ。雪が残る山々を遠くに眺めながら、山道をドライブして、お寺めぐり。
早春の信州は、心あたたまる場所でした。


3月20日


コロナでもウポポイ3の連載中ですが、
先日見てきた栃木県のミツマタが
とてもきれいだったので、
お伝えしたいと思います。


ミツマタの群生地があることを知ったのは、
3月18日でした。
この時期、栃木県のとある山で、
ミツマタの花が咲き乱れ、
「山に妖精が降りたような景色が見られる」
ということを、たまたま知りました。
栃木県なら、日帰りで行くことができそうです。
そのことを夫に話したところ、
「よし、行こう。
 明日は雨みたいだから、あさって行こう。」
ですと。笑


ということで、
その2日後には、現地に向かっていました。笑


こういうことについては、行動が早い夫です。
(壊れた**を直して、などということは、
 1年以上たってもやらないのですが。😔😔)


「渋滞すると困るからね。」
などと言われ、今回もまた、
朝7時に自宅を出発となりました。
(旅行となると、会社に行くときよりも
 早起きをさせられます。😂)


運転は夫にまかせ、いつものように、
車の中で爆睡していると…、
「着いたよ。」
の声。


なんか、思ってたのと景色が違います。



「ここ、どこ?」
「笠間神社。」
「…ミツマタを見に行くんじゃなかったの?」
「行くよ。でも時間があるからね。
 その前に笠間神社も行こうと思って。」


「ここ、茨城県みたいだけど?」
「だいじょうぶ。近くだから。
 午前中は笠間神社、午後はミツマタで、
 両方に行けるよ。」


…なんなんだ。
栃木県と茨城県の両方に行くなんて、
全然聞いてません。😂😂
だったら、もっとゆっくり家を出て、
ミツマタだけ見て帰ればよかったじゃん。


と思ったのですが、もう遅い。
のんびり日帰り旅行で、ゆっくりと
ミツマタだけを見てくるつもりだったのに、
今回もまた、夫に騙されて、
あちこちウロウロ旅行になりそうです。😂


まあ、来ちゃったものはしょうがないので、
こうなったら、
笠間市の旅も楽しみたいと思います。


笠間稲荷神社の前に伸びる、門前通りです。お店が並んでいて、これを見て歩くだけでも楽しいです。^^

蒸籠から出る湯気に誘われて、ふらふらと、「元祖 胡桃饅頭」の吉田屋へ。お饅頭を買いました。笑

笠間名物、胡桃饅頭です。夫と半分こして、食べながら歩きました。

吉田屋の隣りには、杉玉が下がる、笹目宗兵衛商店がありました。1873年(明治6年)創業の、二波山松緑蔵元です。

夫、大喜びで、写真撮りまくり。笑

笠間稲荷神社の祈祷酒もありました。

一粒万倍日に御祈祷していただいたお酒だそうです。

このお店、長屋門の一部になっています。長屋門をくぐって、奥に入ることができます。

中に入ってみます。

笹目宗兵衛商店の裏側です。頑丈な扉が付いていて、昔は蔵だったようです。

さらに奥へと歩きました。

蔵元の煙突がめだっています。手前にすてきな看板があるな、と思ったら、なんとレストランでした。

かつての蔵元の母屋をそのまま利用したお店だそうです。「伝説のこだわり膳 朱の門」とあります。

笹目宗兵衛商店の広い敷地内の、ちょうど真ん中にあるのが「朱の門」です。

表通り(門前通り)に面していないし、お店だとわかりにくいので、あまりよい立地とは言えないのですが、なんだかいい雰囲気です。^^

ランチはひとり1500円のセットのみ。地元の野菜をたっぷり使ったメニューだそうです。


メニューを見ていたら、
お店の方が出てこられました。
「12時半からであれば、予約できますが…。」
と言われたので、お願いしました。


あとでわかったのですが、
この予約が、最後に残った2席分だったのです。
実はこのお店、知る人ぞ知る有名店で、
予約して訪れる人がほとんどのようです。
日曜日だったし、当日に突然行っても、
席がないことが多いみたいでしたが、
このときは、たまたま予約することができて、
ラッキーでした。^^


MIYOがランチに気をとられている間、夫はといえば、さらに敷地の奥にある見学コーナーに見入っていました。

釜場や仕込み桶が展示されていました。


ミツマタのお山に行くつもりが、
笠間稲荷神社に来てしまい、さらに、
門前通りでふらふらと遊んでしまうという、
相変わらずの行き当たりばったりです。
でも、思いがけず、楽しい展開になりました。^^


蔵元の古民家でいただくランチを楽しみに、
それまでの一時間半ほどを
笠間稲荷神社の中でゆっくりと散策しながら
過ごすことにしました。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 36 - 北海道開拓の村⑧(旧近藤医院、旧武岡商店)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 開拓の村で、ソーケシュオマベツ駅逓所で下車してから、お馬さんと。(北海道札幌市)


【お知らせ】
3月25日から、長野に行ってきます。ブログは、少しお休みをいただきます。


11月6日(土)


旧武井商店酒造部の隣りにある、
旧近藤医院に行きました。


旧近藤医院です。玄関先のポーチやバルコニーなど、しゃれた造りになっています。


【旧近藤医院】
1902年(明治35年)に、古平郡古平町に建てられた病院です。1900年(明治33年)、函館病院から古平病院長として招かれた近藤清吉が、後に古平町で開業したときに建てたもので、1958年(昭和33年)まで使われました。併設の石造2階建の倉は明治後期に建てられた文庫倉で、清吉の書庫及び研究室として使われました。

玄関先のポーチ、バルコニー、下見板張の外壁、上げ下げ窓などに、当時の洋風木材建築の特色が見られ、地方の医院建築としては斬新なものでした。1階の受付・薬局、診察室、手術室、茶の間などは、1921年(大正10年)頃のようすを再現しています。


中に入ります。

ここで靴を脱いで上がります。玄関の左手には、受付の小窓があります。

受付の小窓の内側は、薬局になっています。

奥の部屋が薬局で、手前の囲炉裏がある部屋は待合室だったようです。

薬局です。たくさんの薬瓶がならんでいました。

待合室です。

診察室です。うんと小さいころ、親に連れて行かれた近所の病院は、こんな感じでしたね。^^

手術室もありました。

なぜか夫が必ず撮ってしまう、トイレです。笑 

ここにも、吊り手水があります。

旧近藤医院の左側面です。奥に見えるのは文庫倉で、石造2階建です。清吉の書庫及び研究室として使われました。


交差点で通りを横切ってさらに進むと、
旧武岡商店があります。


旧武岡商店です。


【旧武岡商店】
武岡家は、旧徳島藩家老稲田邦植に従い、1871年(明治4年)に淡路島から静内郡に移住しました。1882年(明治15年)からは商家となり、米穀、雑貨、荒物などを扱いました。その後、町の発展に伴い、1898年(明治31年)に本格的な店舗兼住宅を新築します。1901年(明治34年)には郵便局を開設するなど、静内地方の商業の中心的役割を果たしました。


玄関を入ると、広い座敷があります。帳場があり、棚にはたくさんの商品が置かれていました。人形は、番頭と客、そして雇われ人でしょうか。

米穀、雑貨、荒物、衣類などが、整然と並んでいます。

乾物や味噌・醤油、食器やランプもあります。

ブランデーは薬だそうです。笑


【明治後期の商店】
明治30年代後半になると、交通輸送網の整備によって、北海道の商業は大きく発展しました。静内地方は、海路による物資の輸送が発達していたため、この頃には商品が豊富に出まわり、店頭をかざるようになりました。
どこの町でも、市街地の中心には、米穀、雑貨、荒物、衣類など日常生活に必要なものを一か所で揃えることができる万屋(よろずや)的な店が存在し、秋になると、冬支度の買物客でにぎわいました。東静内の武岡商店も、このような店のひとつでした。


住居部分です。台所があり、さらに、いくつもの部屋が続きます。

お風呂もありました!


次回は、旧大石三省堂支店に行きます。(といっても、本屋さんではありません。)


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 35 - 北海道開拓の村⑦(旧武井商店酒造部)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 開拓の村で、馬車鉄道に乗りました。(北海道札幌市)


11月6日(土)


北海道開拓の村・市街地エリアです。
旧三〼川本そば屋のさらに左隣りにある、
旧武井商店酒造部を訪ねました。


旧武井商店酒造部


【旧武井商店酒造部】
茅沼で石炭荷役、回船業を営んでいた武井家が、1886年(明治19年)頃、古宇郡泊村に建てたものです。建物は、主屋、帳場、酒蔵(工場)、土蔵で構成されています。内部の展示は、大正初期のようすを再現しています。

築9年後の明治28年(1895)頃から、酒造業が始まりました。北海道で永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、1944年(昭和19年)、戦時下の統制で酒造中止命令が出されるまで続けられました。


入口を入ってすぐのところにある、帳場です。右奥に見えている部屋が茶の間で、その奥に台所があります。主屋部分には、武井家の人々の生活の場であった茶の間・座敷・台所があります。

酒枡です。武井商店酒造部では、米の買い付けを越後方面で行い、越後杜氏を雇い入れて、内地米と本州の技術による酒造りを行っていました。酒造用に精白した米を仕入れ、沢から引いた水を使った洗米から始まり、蒸米、麹仕込み、酛仕込み、醪仕込み、酒しぼり、滓(おり)引き、火入れ、貯蔵の工程を経て樽詰めし、出荷、小売しました。杜氏、麹師、釜屋が各1人、助手5~6人で、年に100石ほどの清酒を製造していました。

桶、かめ、通い徳利です。

茶の間です。

その奥にある台所です。杜氏たちと家族の夕食を囲む情景を再現しています。

写真の奥は土間になっていて、横に長い流しが見えます。

台所の隣りに置いてある大八車。そして扉の向こう側には、酒蔵(工場)が広がっています。

工場です。酒を製造するにあたって使用していた道具を展示しています。MIYOは、この1枚を撮っただけで気がすむのですが、夫は、このあとさらに詳しく撮らないではいられません。🤣🤣🤣 この写真の右から左まで、なめるように撮り続ける夫の写真をご覧ください。😅

洗米。白米の表面についている糠を取り除く作業で、半切桶に米と水を入れ、両手で洗う「手洗い」と素足で洗う「足洗い」がありました。

上段左から、すかし、ふかしかすり、米かすり。下段左から、つまご、ごま、おり取下駄。

蒸米。ザルで、洗った米の水を切り、蒸します。

まだまだ続きます。😂😂

麹仕込み。米に麹菌を生やして酵素を造らせる工程です。麹用の蒸米を35℃前後に冷まして、麹製造室の床に運び、温湿度を均一にします。約15時間後に蒸米のかたまりをほぐし、その4時間後に一升入りの容器に入れて、室の棚に積みます。上下を交換しながら温度を調節すると、2昼夜で麹ができます。

生酛(きもと)仕込みに使った半切桶と酛(もと)仕込みに使った樽です。

仕込みの方法によって、3種類の樽を使い分けました。

ようやく、大樽に入ります。^^


はあ…。
旧武井商店酒造部の写真だけで、
全部で20枚ですね…。
(これでも、全部を掲載したわけではありません。)
MIYOが、全体写真1枚ですませるところを、
多動夫は、ここまで詳細に撮りまくるんです。
それも、順番がめちゃくちゃで。🤣🤣


あっさりと、展示の右から左へと
順に撮ってくれればいいのですが、
右へ左へウロウロしながら気分で撮ってるので、
わけがわからなくなります。😵😵


一体どこを撮ったのか、
すぐには判別できないことも、よくあります。
ブログに掲載するにあたっては、
全体写真と照らし合わせながら、一枚一枚、
写真に写っているものの位置を確認しています。
そして、展示している順番に並べ直すのですが、
その作業がもう、ほんとにたいへんです~~~。😂


ということで、今回は、
酒好きの夫の写真が多すぎたので、
旧武井商店酒造部のご紹介のみと
なってしまいました。😅


次回は、旧近藤醫院を訪ねます。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 34 - 北海道開拓の村⑥(旧来正旅館、旧三〼河本そば屋)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 鉄道馬車と。後ろは、旧札幌停車場です。(北海道札幌市)


11月6日(土)


北海道開拓の村・市街地エリアの、
旧来正旅館に来ています。


入口を入ると、広い土間があります。ここは汽車を利用する人の待合室で、簡単な売店がありました。売店のガラスケースの奥が子供部屋(6畳)で、その右手が台所です。

待合室のイスです。おしゃれなカフェみたいですね。^^

靴を脱いで、内部を歩いてみます。下の写真の左端のところから上がると…、

そこは茶の間になっています。

茶の間内部です。奥に台所が見えています。

台所です。

茶の間の隣りにある廊下を、さらに奥へと進みます。

家人の寝室(8畳)です。

そしてこちらは女中部屋(4畳)でした。

廊下のつきあたりに、トイレと洗面所がありました。この吊り手水、小さい頃はよく見かけました。なつかしい。昭和30年代の話です。笑


1階が家族の居室で、
2階には、客室が6部屋あるそうです。
見学を終え、外に出ました。
すると…。


あっ。花嫁さんです。^^


最近は、歴史的建造物とか、
お城とか庭園とかで、
結婚写真を撮るカップルが、
本当に多いですね。(うらやましい。笑)
さぞかし素敵な写真になることでしょう。
今の若い人たちはいいなあ…。


MIYOが見守る中、おふたりは、旧来正旅館の中へと入っていきました。すてきな後ろ姿です。^^

旧来正旅館の隣りにある、旧三〼河本そば屋です。


【旧三〼河本そば屋】
明治時代に小樽で開業した蕎麦屋です。手打ちそば屋では、2階にお座敷などを設えてあり、客は座敷に座ってお酒を飲みながら、ゆっくりそばを待つというスタイルだったそうです。内部では、大正期のようすを再現しています。


正面の左右に入り口があります。向かって左が客用、右が勝手口です。看板の裏からレンガの煙突がでています。これは、そば茹釜の煙突です。この時代のそば屋は、愛知県の明治村にもないので、とても貴重な建物であるそうです。

それでは、中に入ってみます。

玄関を入ると、右手が調理場になっています。左に2連かまど、右にそば茹で釜があります。

お蕎麦屋さんらしい設えです。水道蛇口がありますが、井戸水を使っていたらしく、手押しポンプがついています。

1階には、調理場とそば粉をこねて麺を作るそば部屋、そして家族のための居間・座敷・台所がありました。

2階には、およそ50人の客が入れる座敷と女中部屋がありました。

これは…、トイレですね。^^

かつてのそば屋さんの佇まいを今も残す、旧三〼河本そば屋を後にし、次のスポットへ向かいました。


市街地エリアには、商店も多く、
それぞれの生業(なりわい)のようすも
再現されています。
それらを丹念に見て歩くのは、
とても楽しい時間でした。


次は、旧武井商店酒造部を訪ねます。


(つづく)